TOP

坂田賞一覧

第14回坂田記念ジャーナリズム賞(2006年)

(敬称略)

第2部門(国際交流・国際貢献報道)

新聞の部

該当作なし

奨励賞=海外研修補助

・毎日新聞大阪本社世界考古学会議取材班
(代表=佐々木泰造・学芸部編集委員)
「世界考古学会議」一連の報道

 2006年1月に大阪で開かれた東アジアで初の世界考古学会議(WAC)に企画段階から参画し、日本の考古学の国際化の必要性、世界の人々と議論する意義を読者にわかりやすく伝えた。WACは世界最大の考古学の学会だが、日本ではほとんど知られておらず、大阪大会の開催を日本の考古学のあり方を問い直すきっかけにすることを主眼に報道した。様々な記事を通じて、「共生」をテーマとした大阪大会の議論が現代の国々の平和共存にもつながること、先進国と途上国の共同調査の問題点などを詳報。文化面では、日本ではほとんど語られることのない考古学の海外調査の倫理や中立性をめぐる議論に触れた。12月に豪州で開催されたWACシンポジウムにも参加、日本が世界の議論に加わる必要性を訴えた。一連の記事は、発掘調査成果の紹介を中心とする従来の報道とは異なる新しい考古学報道のあり方を示すものとして、国内外で評価された。
 選考委員会では「考古学会議がこれほどまで現代的問題を掘り下げようとしているとは知らなかった。考古学はもはや展示館に封じ込められるものではなく、世の中に裸形を現し、 警鐘を鳴らす存在である。まさに考古学は人間学そのものであり、現代学の根源である。 「考古学の海外調査における倫理』は、古くて新しい問題。考古学者は辺境で資源を発掘し自らの手柄にはするが、現地の地域社会には何の貢献もしない例が多かった。このようなとき「共生の英知」「共生の考古学」のキーワードを掘り起こし提示した報道活動は、現代の風潮に対する直言であり、挑戦である」「考古学の国際交流、とくに日本の力量発揮、国民を巻き込んだ議論の必要性などがよくわかった記事だった」などと評価された。

・朝日放送「ムーブ!」社保庁の闇取材班
(代表=藤田貴久・報道課長)
「ムーブ!」社会保険庁の年金不正免除スクープ

 社会保険庁は新組織に移行予定だが、国民の将来に禍根を残さないためにも、メディアは社保庁の実態を抉り出し、議論を再燃させる必要があった。取材班のこのスクープによって大阪社会保険事務局は全面的に謝罪し、大阪府内で3万7千を超える年金不正免除があったことを認めた。これを機に、不正免除は一気に表面化し、社会保険庁は不適切免除を加えると2006年6月13日現在36都道府県で約21万件の不正があった事実を公表した。国会は紛糾し、審議中だった社会保険庁改革法案は先送りとなった。さらに取材班は不正免除申請書の実物コピーも入手。そこに職員による偽造の署名があり、公務員による組織ぐるみの犯罪性を暴いた。これらの結果、保険料の実質的な納付者は約半分にすぎないこともわかり、 年金制度の根幹が揺らいだ。さらに、消えた年金データの発覚へと発展。取材の目的である年金問題の議論再燃を果たした。
 選考委員会では「社会保険庁のいい加減さは新聞報道で伝えられていたが、テレビ番組の具体性は直接担当者やその上司たちの態度や表情から、そのでたらめな実態が読みとれるところにある。たとえそれが電話取材であってもその取材現場を映し出すことにより、その対応の仕方そのものが事態への返答を物語っている。この番組では、不正行為の明らかな犯罪性を粘り強くつきとめ、厳しく論評することで、視聴者にわかりやすく解説してみせた」「従来、国家公務員の名の下に放置されてきた親方日の丸組織における正体を暴露したもので、その影響するところは極めて大きい」「動かぬ証拠をつかみ積極的な取材をしたことや、市民の協力を得られたことが番組の成功につながった」などと評価された。

昨年の研修

・日本経済新聞大阪本社連載企画「アジアと関西」取材班
(代表=丸山兼也・大阪経済部次長)
広州の熱い風 日本経済新聞社大阪経済部(現・東京経済部)秋山文人

 「アジアのハブ空港」を目指して作られた中国・広州白雲国際空港を降りたって、まずその暑さに驚いた。開くと気温は35度。熱風と日差しがじりじりと体を直撃する。暑い夏は大阪生活で慣れたと思っていたが、この暑さには閉口した。「中国でも最も南に位置する大都市。気候は東南アジアと思った方がよい」と出国前に言われた。駐在3年目を迎える広州支局長は「この気候に慣れると日本の方が過ごしにくく感じる」と言うが、どうにも実感がわかない。
 今回広州を訪れたのは、ある電機メーカーの工場を見学するためだ。大阪の中堅電機メーカー、船井電機。大手メーカーのOEM(相手先ブランドによる生産)を引き受け、テレビやDVDプレーヤー、プリンターなどを大量生産している。米国の巨大量販店チェーン、ウォルマートとの取引を軸に成長し、2006年3月期の連結売上高は約3600億円、営業利益は約230億円に達する。低価格で安定した品質のものを大量に作るという船井の強み。その原動力が、東莞、中山、黄江 という広州内の3拠点にある「船井中国工場」だ。証券会社や金融機関のアナリストの見学ツアーに同行した。
 ワンフロアに、平均年齢19歳前後という若い労働者1000人が生産ラインを前に一心不乱に作業する風景。他メーカーでは自動化が進む中、人海戦術を愚直に貫く。設備投資を抑えられる上、常に生産効率を高めるための施策が可能になる。例えば労働者一人ずつに割り当てられたボタン。不良が発生した時にこのボタンを押すと、ラインが止まる。ラインがよく止まるところは作業員を増員する。逆にラインがスムーズだと人を減らして一人あたりの生産性を上げる。30年前、トヨタ自動車の生産工場を訪れ、学んだ生産方式。船井流にアレンジされ、「フナイ・プロダクトシステム」として今に至る。
 中国の人件費の安さを武器にしたこの生産方式も転換点を迎えている。2008年の北京五輪に向けて急成長する中国経済。人件費の高騰や人手不足など、新たな問題も生じてきた。中国人労働者の質も問われている。最近は労働者もおしゃれになった。あるプリント基板に電子部品を実装する工程でのこと。従事している女性の爪は、マニキュアを塗ったりネールアートを施したりするためか、細かい作業には不都合なくらい長い。だが「もし爪を切れといったら、辞められてしまいますねん」と工場長は苦笑い。以前は3~4年間は従事してくれたこの仕事も、最近では1~2年間。数カ月で居なくなる場合もあるし、朝起きたらラインのチームごといなくなっていたことも。多くは農村部からやってくる彼ら。数年勤めたら故郷に錦を飾れるほどの仕事だが、最近ではアルバイト感覚が浸透してきたという。
 近代的なビルや工場が次々と建設される広州。町並みや郊外の風景は雨後のたけのこのようにめまぐるしく変わるのが感じられる一方で、目に見えない中国の人たちの心情や考え方も変わりつつある。

・朝日放送ドキュメント・スペシャル「終わりなき葬列 発症まで30年、いま広がるアスベスト被害」取材班
(代表=宮沢洋・報道部ニュースセンターディレクター)
「割りばし」が語る中国の今 朝日放送報道局ニュース情報センター宮澤洋一

 2006年7月、1週間の日程で中国の大連市、煙台市、そして北京に行きました。目的は日本に輸出される「割りばし」の生産状況を取材するためです。日本で消費される割りばしの98%が中国産です。その中国が輸出価格の5割の値上げを打ち出し、将来的には生産(=輸出)自体を停止する可能性があるというのです。理由は、環境保護です。経済成長を続ける中国では、森林破壊や砂漠化が深刻で、使い捨ての割りばしに批判の矛先が向けられているのです。
 大連市のある割りばし工場は1日で250万膳を生産しています。材料は中国東北部で採れるシラカバなどですが、中国国内の建設ラッシュや環境保護のための伐採規制などがあって木材価格が急騰しています。このため、最近ではロシアから輸入した木で割りばしを作り日本に輸出する量が増えているということです。割りばしの生産停止に関して工場長は否定的でしたが、全国人民代表大会のある代表は「日本への輸出のために毎年250万本の木が切り倒されている」とした上で「生産停止の議論は今後8年以内に起こるだろう」と話しました。中国産割りばしは1膳が1円未満という安さで、日本市場を制覇しました。今のところ値上げによる深刻な影響はなく、日本企業も中国の出方を静観しています。今後、中国の環境問題と日本の関わりは、さらに重要な取材テーマになると思いました。
 今回、中国国内の取材を初めて経験しました。取材中は中国政府の役人が付き添い、自由に取材で動き回ることは出来ません。何より驚いたのは、毎晩開かれる「宴席」でした。アワビやナマコといった高級食材を使った料理が食べきれないほど出され、残ったものは捨てられてしまう、中国の文化なのかもしれませんが、その豪華な料理と旺盛な食欲に経済発展を続ける中国の姿を見た思いがしました。

・読売テレビ放送報道局ディレクター・十河美加
NNNドキュメント’05「赤ちゃんと語ろ~笑わない天使たちのSOS」
アンコールワットをたずねて 読売テレビ放送報道撮影部・稲津勝

 カンボジアの首都プノンペンの北西約300キロに位置するアンコールワットの町、シェムリアップ。素朴で小さな町だが、アンコール遺跡観光の拠点として、ホテルなどが次々に建設され、年々成長しつづけている活気のある町である。シェムリアップ中心地から北に車で20分ほど走ると、密林の中にアンコールワットが見えてくる。12世紀前半スーリヤヴァルマン2世によって30年余りの年月を費やし建造されたと言われるヒンドゥー教寺院(現在は仏教寺院)。東西1.5キロ、南北13キロにもわたる広大さに圧倒される。
 正面入り口の西参道は540メートルもあり、地盤沈下による石段の修復が行われていた。遺跡修復には世界各国の援助があり日本も政府のアンコール遺跡救済チームが旧王都アンコールトムの寺院バイヨンの保存修復などのプロジェクトに参加している。
 中央塔を囲むように4つの塔があり、それをつなぐのが第3回廊。そのまわりに第2回廊、第1回廊があり、数多くのレリーフが施されていた。ヒンドゥー教の天地創造の神話 「乳海撹拌」や「天国と地獄」の様子が描かれたものなど、どれも繊細で躍動感あふれる彫刻ばかりで、それを手の届く距離で見られるのには驚かされる。なによりも圧倒的なのは、 自然損傷や略奪、内戦などによる破壊の危機に見舞われながらも、約700年もの間この遺跡がここに存在していることに心底驚かされる。アンコールワット造営から半世紀後、周囲12キロの城壁に囲まれた王都、アンコールトムが建造される。敷地内にはいくつもの遺跡があり、その中心には仏教寺院バイヨンがある。ここには、建設者のジャヤヴァルマン7世が信仰した観世音菩薩の四面仏50基ほどがあり、その大きさは、顔だけで人の背丈ほどある。少し微笑んだその表情は、それぞれが違った顔になっていて、どこか馴染みのある雰囲気を感じた。
 世界遺産の指定によって、シェムリアップの町はこの10年でめまぐるしく変化していると聞く。人々の暮らしも良くなり、その一方で失われるものもあるのかもしれない。経済的に貧しい国を訪れるたびに強く感じるのは、幼い子供たちの輝くひとみで、そこには生の喜びを感じる。日本では犯罪の低年齢化や、未来に目標を持てない若者たちなどが増えている。豊かな我が国はいったい何をなくしてきたのだろうか。カンボジアの無邪気な子供たちのあの表情が、この先も変わらぬまま、そこにあってほしいと強く感じた。

第14回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

第13回坂田記念ジャーナリズム賞(2005年)

(敬称略)

第2部門(国際交流・国際貢献報道)

海外研修補助

・日本経済新聞大阪本社連載企画「アジアと関西」取材班
(代表=丸山兼也・大阪経済部次長)

 経済発展のパートナーとして交流を深めるアジアと関西アジア各地で奮闘する関西の企業、ビジネスマンらの活躍を読者に報告したいとの動機で半年間の連載がスタート。第1部「アジア10都市1000人調査」で、アジアの人々が関西に抱く関心の高さが東京に匹敵することを明らかにし、第2部では関西で活躍するアジアの人々をルポ。第3部では再び各地を取材し「衣」「食」「マネー」の分野別に躍動する関西企業を追い、最後はアジアに拠点を持つ関西企業にアンケート調査を実施。「中小企業がアジアで事業を拡大できるかどうかが今後の成長のカギ」といった課題をも浮き彫りにした。
 選考委員会では「関西企業、ビジネスマンらの活躍が生き生きと描かれていて興味深く読める。また、調査を通じてアジアの人々の関西への関心、関西企業のアジア戦略の次の一手など経済専門紙の特色を生かした取材活動が注目された」「日ごろ知っているようであまり知られていない関西の企業やビジネスマンたちの活躍や、アジアと関西の深いかかわりを改めて知ることができた。しかも具体的な事例を豊富に盛り込んで、読ませる工夫がある点 も読者に親しまれる記事としてすぐれた報道である」などと高く評価された。

・朝日放送ドキュメンタリー・スペシャル「終わりなき葬列 発症まで30年、いま広がるアスベスト被害」制作班
(代表=宮沢洋一・報道局ニュースセンターディレクター)

 アスベスト(石綿)による健康被害を社会問題化させるきっかけとなった番組。この放送が引き金となってクボタが記者会見を開き、社員被害の実態と工場周辺住民被害を公表した。 その後、各企業が被害を公表、国が対策を迫られることになった。番組では、アスベスト製造工場の従業員のみならず、工場周辺住民たちも特有のがんで死亡していることをいち早く描き、企業はもちろん、行政、医療など様々な機関が動いて、患者救済と今後の被害拡大 を防ぐよう訴えた。
 選考委員会では「アスベスト健康被害を医学的にもきっちり説明し、アスベストを扱う仕事に従事していた人だけでなく、工場周辺に住み知らず知らずのうちにアスベストを体内に吸い込んだ人たちの被害を取り上げることができた取材力を買う。21世紀に明るみに出た新しい公害を映像化できたのは非常に価値がある」「アスベストによる健康被害の重大性をいち早く目に見える形で訴えた点で、その後の報道合戦のきっかけとなった。今後、追跡調査、患者救済などについて番組の続編を期待したい」などと評価された。

・読売テレビ放送報道局ディレクター・十河美加
NNNドキュメント’05「赤ちゃんと語ろ~笑わない天使たちのSOS」

 児童虐待、育児放棄、育児不安を抱える親たちが増えているなか、この番組は人生の原点である親子関係の構築を赤ちゃんとの「対話」から探る助産師を追ったドキュメンタリーである。赤ちゃんは実は大人の表情や環境を敏感に感じ取り全身で強いメッセージを発している。そのメッセージを受け止め、受け入れることで、親子の絆が深まる。番組はこうした現実に焦点を当て、幼い命の賢さ、強さを伝えると同時に、密室での生活、情報の氾濫など悪しき育児環境や、親子をサポートすべき保健行政の空白を指摘。赤ちゃんの素晴らしさを大人が学び認識することが打開策の一つであることを訴えた。
 選考委員会では「高度経済成長の中で核家族化が一挙に進み、子どもを産み、育てるノウハウが崩壊した。その結果がこの番組に表されている。大家族だった昔の育児に代わる方法を考える時が来ている。育て方の伝授、子ども同士の交流、両親での集まりなど、番組が取り上げたような試みを全国に広げていくことが必要だ」「本番組は少子化問題の断面を見事に描き出し、その打開の道を指し示すユニークで優れた番組である。助産師のひと言ひと言が若いお母さん方を励まし、赤ちゃんのすごい生命力や人間の可能性に気づかせてくれる」などと評価された。

昨年の研修

・読売テレビ放送エグゼクティブ・プロデューサー・中川禎昭
「紅紅(ホンホン)の旅立ち~中国・黄土高原に生きる~」
「戦後の戦争」~占守島を訪ねて~・中川禎昭

 占守島(シュムシュ)は、ロシア・カムチャツカ半島のロバトカ岬から海峡を挟んで13キロ南に位置する。南北30キロ、最大幅20キロの、千島列島最北端にある平坦な島。北海の豪商・高田屋嘉兵衛が19世紀の初めに入港したというペトロパブロフスク・カムチャッキー市から、眼下に野生の熊の群れを見たあと、海峡を越え、2時間余りでヘリは占守島の松の上に着陸した。9月というのに、気温は5度。天候は霧で目まぐるしく変化する。
 占守島で国土防衛にあたっていた日本軍には、あの「玉音放送」が届かず、終戦を知ったのは8月16日で、翌17日からは武装解除の準備に入っていた。そして18日未明、およそ7000人のソ連軍が、この島に侵攻する。これに続いた北千島戦では、日本軍350人、ソ連軍2000人余りの犠牲者が出たという。
 占守島にはほとんど立木といったものがなく、雑草の中に旧日本軍の戦車や砲台10数台が60年間野晒しとなっており、ソ連軍が上陸してきた竹田浜では、静かに波が打ち寄せていた。
 現在、この島にはロシアの国境警備隊員数人が駐在しているほかは、灯台守のロシア人老夫妻が暮らしているだけであるが、かつては250家族ほどの日本人が住んでいたということで、缶詰工場の最盛期には1万人もの日本人が 往来したという。そして、1990年頃まで2人の日本人が生活していたとの記録も残されている。
 ベトロパブロフスクカムチヤッキー市に引き返し、クリル(千島)列島解放モニュメントのある広場に向かった。記念碑には「我々は日本の侵略のために戦い、自国の領土を取り返した」と記されており、400人ほどの戦死者の名が刻み込まれていた。
 街で知り合った元ソ連軍兵士で、占守島で日本軍と戦ったという老人と親しくなり、彼のダーチャ (家庭菜園のある郊外の家)に招かれた。彼のダーチャは市内から50キロほどの、 白樺と黄色く染まり始めた潅木の林の奥にあった。
 「あなたたちが占守島に攻めてきたとき、日本はすでに降伏していた」と話しかけると、彼は「当時、私のような若い兵士にはそんなことは知らされていなかった。日本軍がカムチャツカ半島に上陸してくると聞かされていた」との答えが返ってきた。
 名物のニシンの塩漬けと菜園でとり立ての野菜をご馳走になったあと、市内に戻る車中からは、その日も占守島からシベリアに抑留された旧日本兵が、カムチャツカ富士と呼んで故郷を偲んだ、アパチャ山の美しい稜線が望まれた。

・朝日放送報道局記者・藤井容子
ドキュメンタリー・スペシャル「僕って?~教育の新たな課題、軽度発達障害~」
また、再びの大陸~2005年夏、中国・北京へ~・藤井容子

 記者になって7年。オフで海外に行くことなどありませんでした。この貴重な機会に、母とともに中国へ。私にとっては初めての中国でした。もう70歳近い母はといえば、かつて中国で暮らしたことがありました。故宮や天安門 広場といった観光名所めぐりが主でしたが、中でも一番印象的だったのは万里の長城でした。北京の北西70キロにあり、多くの観光客が日帰りで訪れる八達嶺という登城口から登りました。
 歴史資料などを調べてみると、万里の長城は、すでに紀元前7世紀頃から建設が始まり、巨大な姿になったのは、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝の時代。とくに、その建設に力が入れられたのは明の時代(1368年~1644年)。つまり、他民族(モンゴル族)による支配を受けた後でした。私たちが訪れた八達嶺の長城は明の時代のものです。万里の長城が、他民族の侵入を防ぐという目的ではないにせよ、最後に使われたのは抗日戦争のときだそうです。万里の長城の歴史は、中国の歴史そのもの。高さ8メートル、レンガの地面を 踏みしめて重厚な何かを感じるのは、当然かも知れません。
 一緒に旅した母は、どのように感じていたことでしょう。母は、7~8歳くらいのころ中国で暮らしていたのでした。母の父親が満州鉄道の幹部だったため、家族で満州に居住。母たちも含めて、当時中国に赴任した日本人は裕福そのものだったといいます。しかし、戦況が変化すると身の危険もあったようで、父親が死亡した後、母たち家族は父親の部下の尽力があったからこそ、日本に引き揚げることができたのだと聞きました。
 そんな母は常々、「もう一度、中国に行きたい」と話していたのでした。およそ60年を経て、まさに、その大陸に、再び渡ったわけで、時折、感慨深い表情を見せていました。もしも、時代に翻弄された人生を見つめ直せたのなら、少しばかり 親孝行できたのではと感じています。

第13回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

第12回坂田記念ジャーナリズム賞(2004年)

(敬称略)

第2部門(国際交流・国際貢献報道)

新聞の部

該当作なし

放送の部

該当作なし

海外研修補助

・朝日放送報道情報局記者・藤井容子
ドキュメンタリー・スペシャル「僕って?~教育の新たな課題、軽度発達障害~」

 「軽度発達障害」。一見して分かりにくいこの障害は、社会から長く見過ごされ、周囲の知識のなさとそこからくる無理解が当人や教育現場に不幸な事態を招いてきた。2004年12月には、発達障害者支援法もできた。国が本腰を入れ始めた背景には、軽度発達障害と凶悪な少年事件との関係性を指摘する声があることだ。すべてのケースに共通するものではないが、1997年の神戸の少年A事件など世間を震撼させた事件の加害少年に、軽度発達障害が診断されているのも事実なのである。
 こうした事情から、軽度発達障害児とそれを取り巻く環境へのカメラ取材は実は容易ではなかった。取材対象者とは何度も話し合い、「軽度発達障害への理解を深めたい」という共通の想いを胸に、1年半かけて番組が出来上がったのである。
 軽度発達障害は、いじめ、不登校、学級崩壊、虐待といった大きな社会問題と密接に関わっている。こうした教育現場が抱えるさまざまな課題を解決するのに重要だとの認識からこのドキュメンタリーは成立している。
 選考委員会では「新聞等の報道で軽度発達障害児が小中学校で増加しているという事実は知られていた。しかし実際にどれほど深刻なものかは、このドキュメンタリー映像でなければ伝えられない側面がある。取材者と取材対象者との信頼関係がなければ不可能な場面を記録したことは、この問題解決の重要なきっかけになるようにも思われる。この困難な取材を映像的に見せる工夫も含めて、取材者の報道活動は高く評価される」とされた。

・読売テレビ放送エグゼクティブ・プロデューサー・中川禎昭
「紅紅(ホンホン)13歳の旅立ち~中国・黄土高原に生きる~」

 毎年春になると、西日本を中心に降り注ぐ黄砂。この黄砂の発生源は、荒涼とした大地が広がる中国内陸部の黄土高原。凍てつく大地の中、1人の少女が水桶を天秤棒で担ぎ、山道を登って行く。少女の名は玉少紅、愛称紅紅(ホンホン)。両親は都会に出稼ぎに行ったまま2年半も戻ってこない。残された病弱な祖父母の面倒は紅紅がみている。
 夜明け前からの勉強を続け、中学入試を自信をもって終えるが、出稼ぎ先の両親から学費送金は無理との報せが届く。紅紅は自分の気持ちを伝えるため、生まれて初めて乗る長距離バスで両親の出稼ぎ先に向かう。担任の先生の尽力もあって、やっと進学が叶うことになる。
 しかし紅紅の不安は尽きない。祖父母の健康状態、いつまで続くか予想のつかない学費。 それでも紅紅は熱い希望を胸に、寄宿生活に備えて布団を背負い1人村を後にするが……。
 発展を続ける中国沿岸部の華やかな情報だけが伝えられる現在、中国のもう一つの側面を浮かび上がらせるとともに、われわれ日本人が経済的豊かさの中で見失いつつあるものを、きめ細かい映像で語りかけてくる。
 選考委員会では「最近の中国の急速な発展、繁栄の陰にある中国内陸の実態を赤裸々に描写した作品」「この報道の秀逸なところは、運命の行く末が決して明るくはなさそうなのに、へこたれず到底負けそうにない少女の表情、何一 つ言わず、ただ孫を見守る祖父の表情である。表情がすべてを物語る。テレビの魂は表現である」と評価された。

海外研修の報告

・朝日新聞「ダスキン事件」取材班(代表=緒方謙・大阪本社地域報道部次長兼社会部次長)
北京散策
大阪本社社会部・西村磨

 ベンツ、BMW、アウディ・・・・・。北京首都空港と北京市中心部を結ぶ高速道路[首都機場高速公路]を外国製高級車が時速120キロ以上の速度で走り抜けていく。一瞬、ドイツのアウトバーンを走っているかのように思えた。道路両端にはポプラが整然と植えられていたが、木々は排気ガスと砂ぼこりで雪をかぶったように真っ白になっていた。近代化の裏側で、環境対策が遅れている現状がかいま見えた。
 北京に入った日の夕方、北京最大の繁華街・王府井を歩いた。通りには大型デパートが立ち並び、日本人と変わらない装いの若者があふれていた。北京市は4年後の北京五輪を控え、あちこちでデパートやオフィスビルの建設が進む。その建設予定地の多くが、胡同(フートン)と呼ばれるレンガ造りの住宅街を壊して造成されたものだった。
 胡同は元王朝以降、内モンゴルの人々が建てた四合院造りの建物が連なる街並みだ。華やかなデパートの裏通りでは胡同の解体が進み、無数のレンガが積み上げられていた。ガイドによると、北京市は現在、市内25カ所の胡同を保存するよう義務づけているという。
 当日は日曜日とあって、天安門広場、故宮博物院は観光客であふれていた。紫禁城とも呼ばれる故宮の敷地面積は約72万平方メートル。明王朝の永楽4年(1406年)から14年かけて造られた。清王朝最後の皇帝溥儀まで24人の皇帝がここに君臨し、中国を支配した。2体の獅子像に守られた故宮の太和門をくぐると、広大な広場と皇帝の戴冠式などの重要な儀式が行なわれたとされる太和殿が目に飛び込んできた。数え切れないほどの家来たちが広場で皇帝にひれ伏した様子が、数百年の時を越えて容易に想像できた。
 近代化が進む北京では、年々貧富の格差が広がっているとされる。ガイドを務めてくれた御さんによると、北京の人々の年収は4万元ぐらい。1平方メー トル約1万元(約13万円)の高級マンションが次々と売れているという。一方で、環状と東西の2つある地下鉄では、体が不自由な男性が車内をはい回って乗客に金を求める姿をよく見かけた。北京市の玄関口北京駅は地方都市から出稼ぎに来たとみられる人々であふれていた。
 天安門から西に約5キロの場所に中国革命軍事博物館がある。館内には数々の戦争で使われた武器や資料が数多く展示されていた。立ち寄ったつもりが、気が付くと2時間がたっていた。見学者の多くは中国人で、抗日戦争の歴史を示す展示品を食い入るように見つめていた。中でも南京大虐殺の写真や資料の前にはたくさんの人だかりができていた。
 8月のサッカーアジアカップで中国人サポーターが反日的応援をしたことについて、東京都知事は「民度が低いからしょうがない」と切り捨てた。反日的応援が明らかに「民度」の問題ではないと感じた。(研修期間2004年8月21日~25日)

・NHKスペシャル「阪神を変えた男~監督・星野仙一~」取材班(代表・大宮龍市NHK大阪放送局報道部部長)
アテネ五輪現地派遣レポート
NHK報道局スポーツ報道センター 前大阪放送局ディレクター・加藤篤

 ギリシャの太陽は、エーゲ海の反射も手伝って、街からすべての水分を蒸発させるらしい。 アクロポリスから見渡すアテネの街は石造りの建物と大気中に漂う埃で一層白々と見えた。 私は今回頂いた坂田賞海外研修のおかげで、アテネ五輪放送に携る機会を得た。目的はオリンピック開催直前の街の表情を中継で伝えるというものだ。当然「盛り上がっているアテネ」 を描写することが期待されている。その期待に応えられるだけの現実が、はたしてこの街に見つけられるのだろうか? 不安を抱えながら私は街を歩き、オリンピック前の空気を肌で感じてみることにした。
 ふと、オリンピックのマグカップが目に入った。その土産物屋は店先にサッカー・ギリシャチームのTシャツを所狭しと並べてあった。EURO2000というヨーロッパチャンピオンを決める大会でギリシャが優勝、思いがけない快挙にアテネ中が大騒ぎとなったそうだ。 そのTシャツの片隅に、控えめにオリンピックの公式グッズが置かれていた。
 店長に話を聞くと、オリンピックが近づけば、いつもはギリシャの民芸品を並べている1階フロアをすべてオリンピックグッズに置き換えるという。ギリ シャでは「その時」にならないと盛り上がらないのだということらしい。私は一安心して、どこにどんなグッズを置くのか、中継カメラの動線をイメージしながら店長と打ち合わせをすることができた。
 こうして開幕前の中継は、当初の目的通り伝えることができた。開幕後の盛り上がりはすでにご存じの通りである。開幕前はオリンピックへの期待をチラとも見せていなかった街の表情が一転したのだ。ただでさえ狭いアテネの道路はギリシャ国旗を窓から振って走る車であふれ、カフェでは大画面テレビの競技中継に見入る人たちが夜遅くまでグラスを傾けていた。
 今回感じたのは、当たり前のことではあるが、国民性の違いだった。乱暴な言い方かもしれないが、ギリシャの人々は「あらかじめ期待することが少ない」。いや「楽しいものはその余韻までじっくり味わおう」と言い換えたほうが正しいかもしれない。「自分の目で見て面白いものは面白い」と受け入れる気質が骨の髄までしみこんでいるように思えるのだ。 先のことに期待するのではなく、今あるものを大切にしようという気質というべきか。
 たった数十日の滞在でギリシャの国民性まで論じるのは荒っぽいことではあるが、今回の経験は大いに考えさせられるものだった。これからもスポーツ競技だけでなく、そのバックボーンにスポットを当て、その国、人々の生き様まで想像できる知的好奇心を満たすことができるようなスポーツ報道に努めていきたいと思った。(この中継は2004年8月9日~13日「ニュース10」で放送された)

第12回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

第11回坂田記念ジャーナリズム賞(2003年)

(敬称略)

第2部門(国際交流・国際貢献報道)

海外研修補助

・朝日新聞「ダスキン事件」取材班
(代表=緒方謙・大阪本社地域報道部次長兼社会部次長)

 清掃用品レンタル最大手「ダスキン」(大阪府吹田市)の千葉弘二元会長らが取引先に1億8000万円の不正な資金を提供し、東京地検特捜部が特別背任の疑いで捜査を始めたことを特報した。さらに、ダスキンから土屋義彦・埼玉県知事(当時)の長女、市川桃子氏のコンサルタント会社に、この取引先と大手広告会社の2社を経由させる不明朗な方法で計約1000万円が支払われていたことをスクープした。
 とりわけ後者のスクープは、東京地検特捜部が特別背任事件後に、市川氏の立件を想定していることを他社に先駆けて明らかにしたもので、参院議長、全国知事会会長などの要職を歴任した土屋知事が辞任するきっかけをつくった。
 選考委員会では「ダスキン元会長らによる不正な資金流用事件を手がかりに、当時の土屋義彦埼玉県知事にからむ政治資金規正法違反容疑をいち早く特報した地道で適切な報道活動はスクープ・企画報道として優秀である。とりわけ土屋知事の長女のコンサルタント会社への不明朗な資金提供のスクープは、大物知事として君臨した土屋氏の辞任を余儀なくさせるきっかけとなり、ジャー ナリズムとしての監視機能を発揮した」と評価された。

・NHKスペシャル「阪神を変えた男~監督・星野仙一~」取材班
(代表=大宮龍市NHK大阪放送局報道部部長)

 阪神タイガース・星野仙一監督は、徹底したリストラの断行や、選手コー チへの意識改革で、「ダメ虎」と言われ低迷してきたチームを18年ぶりのリーグ優勝に導いた。
 NHKは今回、これまでほとんど取材が許されなかった極秘のコーチ会議、甲子園球場の監督室などに密着取材。体力の限界やプレッシャーと闘いながら指揮を執る星野監督の姿や、コーチ・有力選手へのインタビューをもとに、知られざるチーム改革の舞台裏を描いた。 番組は関西地区で視聴率25.0%を記録するなど、大きな反響を呼んだ。
 選考委員会では「星野阪神の活躍を映像としてよくまとめた。企画力、取材力、集中力、 娯楽性に富んだ、時宜を得た執念ある作品」と評価された。

昨年の研修

毎日新聞「世界子ども救援キャンペーン」取材班
(代表=中島章雄・社会部副部長)
忘れられた国の子どもたち 大阪本社社会部・一色昭宏

 罪のない子どもだちが手足を切断され、兵士として殺人や略奪を強要される。スラムでごみに囲まれた暮らしを強いられ、病気になっても満足な治療すら受 けられない……
 毎日新聞大阪社会部「世界子ども救援キャンペーン報道」の坂田賞海外研修対象受賞を機に、2003年7月から1カ月余り、内戦が終わったばかりの西アフリカの小国シエラレオネを訪ねた。同じ時代を生きる者として、その悲惨さを伝えたいと思っての取材だったが、内戦の傷跡と貧困の深刻さは想像をはるかに越えた。
 1000人中316人。3人に1人が5歳の誕生日を迎える前に命を落とす世界最悪の乳幼児死亡率が、この国の子どもたちの置かれた状況を端的に物語っていた。平均寿命は日本の半分以下の34歳。世界の注目が集まるイラクやアフガニスタンに比べ、ほとんど馴染みのない国だが、その実情に目を向け、関心を持ち続けることが何より重要だと痛感した。
 91年に始まった内戦は10年余り続いた。同国東部で産出されるダイヤモンドの利権を巡り、隣国リベリアに支援された反政府勢力が武装蜂起したのがきっかけだった。人口約460万人のうち5万人が死亡、200万人以上が故郷を追われた。
 シエラレオネ内戦の悲劇は、反政府勢力が無差別に行った「手足切断作戦」に象徴される。 「殺さず、障害者を発生させて敵の負担を強いる」という狙いから、兵士だけでなく多数の子どもを含む数千人の被害者が出た。首都フリータウンのアンプティー(切断された人たちの)キャンプで、右腕のない女の子(8)が水くみを手伝う姿には衝撃を受けた。腕を切断された時は4歳。左腕だけでは他の子どものように水を入れた容器を頭に載せることができず、体をくねらせ、自宅まで休み休みに運んでいた。
 「この子を誘拐し、腕を切り落とした兵士たちはみな薬漬けだった。人間のやることじゃない」。同居するおばさんは吐き捨てるように言った。
 左腕を切断された少女(17)は傷口の縫合部の痛みに苦しんでいた。手術が必要だがお金がなく、病院に行っても痛み止めの薬を渡されるだけ。学校に通えず、家族が引き取れないため1人でキャンプに暮らしていた。被害者は老若男女を問わない。みんな仕事がなく、口々に「外国の援助なしに生きてゆけない」と訴えていた。
 1万人以上といわれる「元子ども兵」にも出会った。少年と同様に銃を持たされた少女も多く、「元少年兵」という言葉ではくくれないことを実感した。子どもたちの多くは10歳にも満たない時に反政府勢力に誘拐された。学校を襲われ、クラスごとさらわれたケースもあったという。ある少年は「戦闘に駆り出される時はいつも最前線。大人たちは後からついて来た」と証言した。
 子どもたちの自立を支援しようとパソコン講習を行っているNGOスタッフは「使う順番などささいなことですぐにけんかになる。突然キレる子も多い」と気をもんでいた。内戦中、数え切れないほど人の死に接した子どもたちの心のケアも急務だと感じた。人口が急増し、悪臭漂うスラムでは、洗濯もトイレも遊び場も同じ川。診療所の薬は不足し、日本では容易に助かる命が次々に失われていた。
 取材中、何度も絶望的な気分になったが、救われたのは、子どもたちの表情が明るかったことだ。両親を殺された、オノで右目をえぐられた16歳の女の子は「人のためになる仕事をしたい」と言い、右足を失った16歳の少年も「しっかり勉強して手に職をつけたい」と前向きに将来を見据えていた。
 連載記事を書いた後、これまでに十数回小中学校へ「出前授業」に出かけた。「私たちは何をすればいいんですか」と尋ねられる度に「まずは関心を持って」と答えてきた。無関心によって悲劇は拡大する。特効薬はなくても、自分に何ができるか、一人一人が自分の頭で考えてほしいと考えたからだ。取材の成果は記事だけでなく、教育現場の先生方の協力を得て 難民教材ビデオ」という形になった。少しでも、日本の子どもたちの理解が広がるきっかけになればと思う。
 ようやく笑顔が戻り始めたシエラレオネの子どもたちの表情が2度と曇ることがないよう、これからも関心を持ち続けたい。

第11回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

第10回坂田記念ジャーナリズム賞(2002年)

(敬称略)

第2部門(国際交流・国際貢献報道)

新聞の部

該当作なし

放送の部

該当作なし

海外研修補助

・毎日新聞「世界子ども救援キャンペーン」取材班
(代表=中島章雄・社会部副部長)
キャンペーン報道「世界子ども救援キャンペーン」

 毎日新聞が1979年に始めた「飢餓・貧困・難民救済キャンペーン」は記念すべき第1回坂田記念ジャーナリズム賞を受賞した。21世紀に入り、難民の中でも特に母親と子どもが苦しい生活を強いられていることに注目し、同じ時を生きる母と子に手を差しのべようと「世界子ども救援キャンペーン」に衣替えした。
 2001年10月8日、米英軍がアフガン空爆を開始した日カンボジアの連載を開始。内戦終結後も多くの子どもたちが苦しむ姿を報告し「命の尊さ」を読者に訴えた。キャンペーン開始から4半世紀。平和をつくる営みはまだ続く。
 選考委員会では「読者・視聴者に優しいメディアの手本とすべき報道。活字と写真という新聞メディアの特性を十分生かした報道であり社会運動だ」との評価がありました。

昨年の研修

・奈良新聞社「県警問題」取材班
(代表=矢ケ井敏美・論説委員兼編集局長代理)

Ⅰ.鑑真への旅―能「大和上」奉納
 平成14年10月8日から11日まで、奈良市の唐招提寺が鑑真の故郷である中国・揚州市の大明寺を訪問し、報道部の桑原理恵記者が同行取材した。鑑真和上来日1250年を記念し、唐招提寺が金春流能楽師・櫻間真理師に鑑真にちなんだ能「大和上」の創作を依頼。これを大明寺で最初に奉納することになり 益田快範長老をはじめとする訪中団が奈良県知事、 奈良市長の親書を携え大明寺を訪れた。
 日本では鑑真は幾多の困難を乗り越えて仏教の戒律を伝えたとして知られており、奈良仏教のなかでも重要な存在だが、中国を訪問してみると、日本以上に鑑真の存在が知られていることが分かり、驚いた。中国では、文化大革命やそれ以前の廃仏毀釈などで、仏教の置かれた立場は難しいと想像していたが、大明寺は予想をはるかに上回る大きな寺であるだけでなく、国からも特別に保護されており、日本以上に篤い信仰心に守られていることを感じた。奈良での日本の文化や伝統、仏教美術を担当する記者として、1250年前に唐から日本へ渡った偉大な僧の足跡を訪ねた取材は貴重な体験であったと同時に、1250年の時を経て日本と中国の懸け橋になっていることを実感できた。
 掲載は同年10月22日から24日まで3回。
Ⅱ. 韓国・釜山 チヂミ紀行―本場の味を求めて
 平成14年11月、 武智功論説委員が取材。
 もともと関西は在日韓国・朝鮮人が多く、韓国 (朝鮮)料理はポピュラーな料理の一つになっている。しかし近年のエスニック料理のブームや、2002年のワールドカップ、アジア大会などの影響もあって、韓国(朝鮮)料理は全国的にもさらに身近な存在になってきた。
 こうしたなかで韓国料理の「チヂミ」と日本の「お好み焼き」の関係はどのようなものかと、日本と朝鮮半島とは古代から様々な交流があったが、食の文化交流の一例として「チヂミ」を取り上げてみた。
 韓国入りして、多くの人に話を聞くうちに、「チヂミ」の類は、宗教儀式もからんだ奥の深い料理であることが分かり、1回の取材ではとうてい全容を知ることはできないと判断、 本紙レジャー面での読み物に仕立てた。朝鮮半島の焼き物を、独自の審美眼で取り上げた、 千利休の時代に「お好み焼き」の起源をもとめ、同時代の韓国の小麦粉料理を紹介した。連載は平成15年4月30日 5月8日、15日付の3回。
Ⅲ. 観光開発の主役たち―絹の道の国 ウズベキスタンを訪ねて
 平成15年3月13日から26日までの14日間、社会部の岩野英明記者が平成8年旧ソ連から独立したウズベキスタン共和国を訪問した。
 奈良県では、同国から観光開発に関わる人材育成の要請を受けた国際協力事業団 (JICA) の研修事業を、国際協力の一環として受託。平成14年度から5カ年計画でウズベキスタンの観光振興支援の取り組みを始め、14,15年度の2カ年で20人の研修生を受け入れた。シルクロードを代表する世界遺産を有する同国で、観光産業に携わる研修生11人に会い、県の研修で受けた知識や経験は何か、自国での観光振興にどのように役立てているのか取材。 安定した経済発展のため観光振興することは、国民の生活水準を短期間で良くする方法だとする意欲を感じた。世界遺産のあるサマルカンド、ブハラ、ヒヴァの各都市も訪問した。 独立後、急激な変化はないものの、中央アジアに位置するウズベキスタンは歴史的に素晴らしい遺産が点在する。シルクロードに興味があり、中央アジアにおける文明のダイナミズムに魅力を感じている人には楽しめる地域で、歴史ある観光資源は観光面からも将来有望な国だと思う。
 連載は4月10日~13日、19日、21日、23日付の7回。

・関西テレビ放送「週末家族―ずっとそばにいて」迫川緑記者
NGO「日越医療交流センター」活動報告 迫川記者
 大阪の阪南中央病院を中心としたNGO「日越医療交流センター」は毎年、ベトナムの農村地域に診療所を建設し、住民診療を行っている。枯葉剤による健康被害の実態調査と無医村地域への医療支援が目的だ。ドキュメンタリー番組の取材をさせていただいたことが縁で今回ご一緒させていただいた。
 1970年生まれで32歳。戦争が終わるころ枯葉剤を浴びた赤ちゃんが今、生殖期にさしかかっている。あるいは兵士たちの孫が生まれている。そしていまだに多くの先天奇形児が生まれている。
 枯葉剤に含まれるダイオキシンの影響が大きいことはわかっているが、それが、今、生まれている赤ちゃんにも及んでいると言えるのか。孫の代になっている赤ちゃんにまで及んでいると言えるのか。大国アメリカがうやむやにしたい中で、どこまでをダイオキシンによるものであるかと立証するのはとてつもなく難しい。
 そこで重要になってくるのが、ベトナムの人たちの基礎データである。血中ダイオキシン濃度、その他の指標、抱えている症状……できるだけ広範囲に、長い期間にわたって集めたデータが生きてくる。これを目的に日越医療交流センターは地道な活動を続けている。もちろん検査だけが目的にならないよう、ベトナム政府の要請にこたえる形で無医村地域に診療所を建設し、医療相談を行っている。
 今回訪問したのは北部の農村のノンハ村。枯葉剤散布地域ではないが、北部からも多くの兵士が駆り出されている。もちろん医者などひとりもいない。次から次へと患者が現れた。
 こんな山深い農村で、こんなにも障害を持つ人たちがいるのかと驚いたが、それ以上に、 そんな障害を持ちながら、一度も医者にかかっていない人がこれまた多いのに驚いた。彼らの支援も砂地に水をまくようなむなしさが残る。
 だが、医師も看護師も妙に元気なのだ。阪南中央病院が経営難に追い込まれながらも理想の医療を追求しようとしている様を2カ月にわたり取材させていただいたが、みな毎日ぐったり疲れているようだった。そんな彼らが、うだるような暑さの中、実に楽しそうにしている。聞くと、「ベトナムの子どもたちをみていると、なんか元気が出るんですよ」。確かに、 子どもたちの強い目の輝きをみているだけでこっちまで元気になってくる。「迫川さんも病院に取材に来ている時より元気ですね」と言われてしまった。
 自分でビデオカメラを持ったことで、被写体に近づく楽しさも味わえた。本当にこの人たちは医療が好きなんだなあと感心したが、自分も根っからのテレビ屋だなあと感じることができた。いい経験をさせていただけたと思っている。
 我々メディアは、新しいことに目を奪われがちで、継続する力に欠けているところが多い。 彼らの医療支援は、夏休み代わりの気楽なものというところもあるのだろうが、地味ながら息の長い交流になっている。14年目を迎え、診療所も21カ所を数えた。
 「継続は力なり」。座右の銘にして記者活動を続けていきたいと思う。
 番組は2002年9月26日スーパーニュース「ほっとカンサイ」で放送。

第10回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

坂田賞一覧