坂田賞一覧

第17回坂田記念ジャーナリズム賞(2009年)

(敬称略)

第17回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

第16回坂田記念ジャーナリズム賞(2008年)

(敬称略)

第16回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

第15回坂田記念ジャーナリズム賞(2007年)

(敬称略)

奨励賞=海外研修補助

・朝日新聞虐待問題取材班
(代表=西見誠一・社会グループ記者)
長期連載「ルポ虐待」

 1週間に1人の割合で子どもが虐待死している。児童相談所 への虐待通知件数はこの20年足らずで30倍に膨れあがった。だが虐待事件が起きると、加害者や児童相談所を一方的に非難して終わり、といった集中豪雨的な報道が目立ち、「かえって問題の本質が見えづらくなっている」との指摘もあった。そこで「現場に密着し、淡々と事実を重ねることで、真の問題がどこにあるのかを探れないだろうか」とルポを企画した。
 「児童相談所24時」「児童養護施設」「母親」「ある事件」「教師たち」「里親」とテーマを 変えながら連載を続け、児童相談所の驚異的な忙しさ、被害者が抱える深刻なトラウマ、親支援の大切さと難しさなど、これまであまり光が当たらなかった課題を浮かび上がらせた。
 第4部の「ある事件」は、娘を虐待で死なせ、「鬼父母」と報じられた夫婦を粘り強く説得して記事化したもので、母自身の被虐待体験が事件と密接に絡んでいたことを解き明かした。また、一連の取材は、兵庫県三木市で起きた女児虐待をめぐり、小学校の校長が保護の経緯を市議に漏らす、という問題を取り上げた07年12月の特報にもつながった。取材班に寄せられた意見は計約300通にのぼる。記事は、民生委員や保健師らの研修で教材として使われているほか、「子どもの虐待防止推進全国フォーラム」(厚生労働省主催)でも紹介されるなど、専門家の高い評価も得ている。
 選考委員会では「丹念な取材活動によって、子どもの虐待死の痛ましい現場を報道している。しかも、児童相談所などの問題点も鋭くえぐり、その解決の方向を暗示している。目下の重大な社会問題のひとつに警鐘を鳴らし、世論を喚起した貴重な連載企画である」「各テーマに応じた念入りな取材がなされているが、やはり問題点として残るのは、虐待の原因と虐待対応の難しさだ。改正児童虐待防止法が昨年成立したものの、積極的立ち入り調査から “福祉警察〟にいたる不安を感じている施設の立場。虐待者本人も取材者も虐待防止の十分な解明ができないでいる。社会の悩みは尽きない。ただ、この取材に添付された2枚の写真。「児童養護施設の子どもたち」「児童養護施設近くの学校で』には、この難問の解答が示されているようにもみえる。朝ごはんが終わって職員の手が空くのを待ってひざの上に飛び乗る子どもたち。母親の元に帰ることになって、雨の 降るなか見送ってくれた先生にそっと傘を差し出す女の子。これらの写真からは『大丈夫だよ』という声も聞こえる。カメラマンに拍手を贈る」「虐待問題の解決に新聞の力を信頼している」などと評価された。

・NHK大阪放送局朝鮮通信使400年取材プロジェクト
(代表=吉村伸吾・編成部チーフプロデューサー)
かんさい特集「朝鮮通信使400年 その知られざる歴史」

 2007年に開始400年を迎えた朝鮮通信使。鎖国時代に大行列を率いて朝鮮からやって来た朝鮮通信使は、各地で華やかな文化交流を繰り広げたため、従来、日韓友好の原点として捉えられることが多かった。しかし、朝鮮通信使は単なる親善使節ではなく、重い使命を帯びた外交使節だった。その使命とは、文禄慶長の役で日本に連れ去られた朝鮮半島の人々を救い出し、祖国へ連れ戻すこと、「刷還」だった。
 この番組は、初期の通信使が担っていたこの使命「刷還」に焦点を当てた。通信使が実際に連れ帰ることのできた人は僅かであり資料も乏しいため、連れ帰ろうとして果たせなかった人々、その子孫、さらに文禄慶長の役で朝鮮側に投降した日本人「降倭」まで掘り起こして、現代にまでつながるその意義を問い直し、朝鮮通信使観に新たな一面を付け加えた。
 なお、本番組は朝鮮通信使400年を記念して、NHK大阪がKBS釜山と共同で企画した 2番組のうちの一つであり、KBS釜山制作の関連番組とともに韓国でも放送され、好評を得た。日本でも、KBS釜山制作の関連番組とともに放送され、朝鮮通信使を、国を超えて理解することに資した。
 選考委員会では「知っているようで詳しく知らなかった朝鮮通信使の歴史についてとても分かりやすく、しかも興味深く見せてくれた優れた番組である。そのキーワードとなった「刷還」や「降倭」という視点が朝鮮通信使の意義をいっそう明らかにした。つまり、ナゾ解きの要素を番組に盛り込むことによって視聴者の関心を自然な形でひきつけることに成功している。映像的資料の多様な組み合わせを駆使し、その知られざる歴史を説得的な画面にして見せてくれた。学校などの教材としても有用な番組である」「朝鮮通信使についての初歩的な歴史解説書や市民運動の呼びかけ文などでは両地域互恵平等の証のように書いてある。その位置づけは朝鮮半島の南北双方の在日団体からも長い間共有されてきた歴史理解であった。しかし、歴史家による文献学的な研究が進み、それが文禄慶長の役における朝鮮人捕虜を取り返すための使節であったことが描かれる。専門的論文や研究書だけでは一般市民が知ることができない情報を日本各地の関連フェスティバルなどを紹介しながら行う番組制作は見事である。また、この番組制作が韓 国KBS釜山との共同企画として行われたことも、両国民の相互理解の促進に貢献するものとして評価できる」などと評価された。

昨年の研修

・朝日放送「ムーブ!」社保庁の闇取材班
(代表=藤田貴久・報道課長)
イギリス教育見聞録 朝日放送ディレクター 藤田貴久

 伝統と定評あるイギリスの教育に、日本の教育再生の鍵を探った。イギリスの教育で興味をひかれるのは「ボーディングスクール」と呼ばれる全寮制の学校である。その典型が「ザ・ナイン」と呼ばれる9つのパブリックスクールである。名前からは公立校を想像するが、実際には私立校で、生徒は出身地・居住地を問わないとの意味からそう呼ばれているようだ。 代表的な学校を紹介する。
 最古のパブリックスクールとされるのがウィンチェスター・カレッジ。かつての首都ウィンチェスターで1382年創立された。受付に着いて驚いた。中世のままの石造りの建物が並び、そこを抜けて構内に入る。圧倒される規模。日本の総合大学並みに広い。創立当時の建物を中心に校舎やグラウンドが広がり、ラグビーに似た独自のスポーツに興じる生徒の姿が目に入る。木々の間には川も流れている。ここで日本の中2から高3に相当する生徒700人弱が寮生活を送っている。600年の歴史を経て培ったこの学校の校風は「自由」である。 自分で考え行動する学生を育んでいる。学校長(ヘッドマスター)によると、ここの生徒の多くは『社会を陰ながら支える」官僚や法廷弁護士といった職業につくという。パブリックスクールの出発点は、国王を補佐する人物の養成だったため、その伝統が今も人材を作っているようである。
 チャーチル首相やインドの初代首相ネルーの母校として知られるハロースクールは、ロンドンの北西に位置し1572年に設立されている。700人余の生徒が11の寮に分かれ、丘に建ち並ぶ校舎と取り囲むグラウンドやゴルフ場、五輪強化選手も練習に使うというトラックで学んでいる。毎年世界のトップ大学に多数が進学するが、ここの特徴は、スポーツや音楽に力を入れていることだ。入学試験の際には、何の楽器が弾けるのか、何のスポーツができるのか、必ず質問される。なぜなら入学後、演奏会や連日のスポーツが待ち構えているのである。寮対抗の試合をはじめ、ライバル校であるイートンなどとの試合は非常に重要なイベントである。学業がおろそかなことはなく、博士号を持った教師らが授業にあたっている。ここの教育方針は「学力はもちろんのこと、社会性も学ばせ、社会をリードする人物を作ることだ」とヘッドマスターは話す。「健全な体には健全な精神が宿る」ということなのだろう。
 イギリスの全寮制の学校は世界的にも人気が高いと聞いてはいたが、直に接してその良さが見えた。それは、子どもが豊かな自然の中で社会の喧騒と離れ、子どもらしく生きる姿だ。教育はそれに尽きるのだろう。

・毎日新聞大阪本社世界考古学会議取材班
(代表=佐々木泰造・学芸部編集委)
古代アンデスの遺跡を訪ねて 佐々木泰造

 日本から見ると地球の反対側にあるペルーの遺跡に関心を持ったのは10年前、加藤泰健・関雄二編『文明の創造力」(1998年、角川書店)に出合ったときだ。1958年に始まった日本の調査団によるアンデス文明研究の歩みを振り返ったこの本では、紀元前2500年から紀元前後までの形成期と呼ばれる時代に、古代アンデス社会が神殿を中心として組織化され、古い神殿を壊したり、埋めたりして神殿を更新したことが文明を生み出す原動力になったと記している。
 ちょうどこのころ、弥生時代の大規模集落である池上曽根遺跡 (大阪府)で紀元前1世紀の大型建物の跡が発掘調査され、複数回の建て替えが行われていたことが判明した。島根県の出雲大社では3本1組の巨大な柱が発掘され、高さ48mと伝えられる古代の高層神殿が現実味を帯びてきた。出雲大社の本殿は何度も倒壊したという記録があり、意図的に倒して建て替えたという説が出されている。
 遠く離れたペルーの遺跡の神殿と、古代日本の祭祀建物の間に文化の伝播による相互影響があったとは考えにくい。神殿更新は人類の文明に共通する行為だった可能性がある。
 国立民族学博物館の関雄二教授がペルー北部山地のパコパンパ遺跡で発掘調査をしていることを知り、現地を訪ねることにした。
 ペルーの首都リマまでの飛行時間が19時間。さらに北海岸の大都市チクライヨまで飛行機で1時間半。そこから絶壁を縫うような山道を四輪駆動車で8時間走る。
 パコパンパ遺跡は標高約2500mの山地にある。幅約100m、長さ約400mの範囲に3段にわたって基壇が造成され、その上に巨大な石積みの祭祀建造物が設けられた。ここでどのような文明の興亡があったのか。日本の学際的な調査団、ペルーの考古学者やサン・マルコス大学の学生のほかに村民約30人も作業員として参加して発掘調査が行われていた。形成期の次の地方発展期(紀元前後~西暦600年ごろ)には、南海岸では地上絵で知られるナスカ文化が栄え、パコパンパに近い北海岸ではモチェ文化が国家段階の社会を形成したのに、 パコパンパなど形成期の文化が国家を造ることなく衰退した理由を明らかにすることが調査の狙いだ。
 今後10年以上かけてこの遺跡を調査し他の遺跡とも比較しながら、古代アンデス文明誕生の謎の解明に取り組むという。これは古代アンデス考古学の貴重な調査成果となるだけでなく、日本の古代社会を考えるうえでも大きな示唆を与えてくれるだろう。世界の中で日本の考古学を考えるという世界考古学会議大阪大会で得た視点が生かされた取材旅行となった。

第15回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

第14回坂田記念ジャーナリズム賞(2006年)

(敬称略)

第2部門(国際交流・国際貢献報道)

新聞の部

該当作なし

奨励賞=海外研修補助

・毎日新聞大阪本社世界考古学会議取材班
(代表=佐々木泰造・学芸部編集委員)
「世界考古学会議」一連の報道

 2006年1月に大阪で開かれた東アジアで初の世界考古学会議(WAC)に企画段階から参画し、日本の考古学の国際化の必要性、世界の人々と議論する意義を読者にわかりやすく伝えた。WACは世界最大の考古学の学会だが、日本ではほとんど知られておらず、大阪大会の開催を日本の考古学のあり方を問い直すきっかけにすることを主眼に報道した。様々な記事を通じて、「共生」をテーマとした大阪大会の議論が現代の国々の平和共存にもつながること、先進国と途上国の共同調査の問題点などを詳報。文化面では、日本ではほとんど語られることのない考古学の海外調査の倫理や中立性をめぐる議論に触れた。12月に豪州で開催されたWACシンポジウムにも参加、日本が世界の議論に加わる必要性を訴えた。一連の記事は、発掘調査成果の紹介を中心とする従来の報道とは異なる新しい考古学報道のあり方を示すものとして、国内外で評価された。
 選考委員会では「考古学会議がこれほどまで現代的問題を掘り下げようとしているとは知らなかった。考古学はもはや展示館に封じ込められるものではなく、世の中に裸形を現し、 警鐘を鳴らす存在である。まさに考古学は人間学そのものであり、現代学の根源である。 「考古学の海外調査における倫理』は、古くて新しい問題。考古学者は辺境で資源を発掘し自らの手柄にはするが、現地の地域社会には何の貢献もしない例が多かった。このようなとき「共生の英知」「共生の考古学」のキーワードを掘り起こし提示した報道活動は、現代の風潮に対する直言であり、挑戦である」「考古学の国際交流、とくに日本の力量発揮、国民を巻き込んだ議論の必要性などがよくわかった記事だった」などと評価された。

・朝日放送「ムーブ!」社保庁の闇取材班
(代表=藤田貴久・報道課長)
「ムーブ!」社会保険庁の年金不正免除スクープ

 社会保険庁は新組織に移行予定だが、国民の将来に禍根を残さないためにも、メディアは社保庁の実態を抉り出し、議論を再燃させる必要があった。取材班のこのスクープによって大阪社会保険事務局は全面的に謝罪し、大阪府内で3万7千を超える年金不正免除があったことを認めた。これを機に、不正免除は一気に表面化し、社会保険庁は不適切免除を加えると2006年6月13日現在36都道府県で約21万件の不正があった事実を公表した。国会は紛糾し、審議中だった社会保険庁改革法案は先送りとなった。さらに取材班は不正免除申請書の実物コピーも入手。そこに職員による偽造の署名があり、公務員による組織ぐるみの犯罪性を暴いた。これらの結果、保険料の実質的な納付者は約半分にすぎないこともわかり、 年金制度の根幹が揺らいだ。さらに、消えた年金データの発覚へと発展。取材の目的である年金問題の議論再燃を果たした。
 選考委員会では「社会保険庁のいい加減さは新聞報道で伝えられていたが、テレビ番組の具体性は直接担当者やその上司たちの態度や表情から、そのでたらめな実態が読みとれるところにある。たとえそれが電話取材であってもその取材現場を映し出すことにより、その対応の仕方そのものが事態への返答を物語っている。この番組では、不正行為の明らかな犯罪性を粘り強くつきとめ、厳しく論評することで、視聴者にわかりやすく解説してみせた」「従来、国家公務員の名の下に放置されてきた親方日の丸組織における正体を暴露したもので、その影響するところは極めて大きい」「動かぬ証拠をつかみ積極的な取材をしたことや、市民の協力を得られたことが番組の成功につながった」などと評価された。

昨年の研修

・日本経済新聞大阪本社連載企画「アジアと関西」取材班
(代表=丸山兼也・大阪経済部次長)
広州の熱い風 日本経済新聞社大阪経済部(現・東京経済部)秋山文人

 「アジアのハブ空港」を目指して作られた中国・広州白雲国際空港を降りたって、まずその暑さに驚いた。開くと気温は35度。熱風と日差しがじりじりと体を直撃する。暑い夏は大阪生活で慣れたと思っていたが、この暑さには閉口した。「中国でも最も南に位置する大都市。気候は東南アジアと思った方がよい」と出国前に言われた。駐在3年目を迎える広州支局長は「この気候に慣れると日本の方が過ごしにくく感じる」と言うが、どうにも実感がわかない。
 今回広州を訪れたのは、ある電機メーカーの工場を見学するためだ。大阪の中堅電機メーカー、船井電機。大手メーカーのOEM(相手先ブランドによる生産)を引き受け、テレビやDVDプレーヤー、プリンターなどを大量生産している。米国の巨大量販店チェーン、ウォルマートとの取引を軸に成長し、2006年3月期の連結売上高は約3600億円、営業利益は約230億円に達する。低価格で安定した品質のものを大量に作るという船井の強み。その原動力が、東莞、中山、黄江 という広州内の3拠点にある「船井中国工場」だ。証券会社や金融機関のアナリストの見学ツアーに同行した。
 ワンフロアに、平均年齢19歳前後という若い労働者1000人が生産ラインを前に一心不乱に作業する風景。他メーカーでは自動化が進む中、人海戦術を愚直に貫く。設備投資を抑えられる上、常に生産効率を高めるための施策が可能になる。例えば労働者一人ずつに割り当てられたボタン。不良が発生した時にこのボタンを押すと、ラインが止まる。ラインがよく止まるところは作業員を増員する。逆にラインがスムーズだと人を減らして一人あたりの生産性を上げる。30年前、トヨタ自動車の生産工場を訪れ、学んだ生産方式。船井流にアレンジされ、「フナイ・プロダクトシステム」として今に至る。
 中国の人件費の安さを武器にしたこの生産方式も転換点を迎えている。2008年の北京五輪に向けて急成長する中国経済。人件費の高騰や人手不足など、新たな問題も生じてきた。中国人労働者の質も問われている。最近は労働者もおしゃれになった。あるプリント基板に電子部品を実装する工程でのこと。従事している女性の爪は、マニキュアを塗ったりネールアートを施したりするためか、細かい作業には不都合なくらい長い。だが「もし爪を切れといったら、辞められてしまいますねん」と工場長は苦笑い。以前は3~4年間は従事してくれたこの仕事も、最近では1~2年間。数カ月で居なくなる場合もあるし、朝起きたらラインのチームごといなくなっていたことも。多くは農村部からやってくる彼ら。数年勤めたら故郷に錦を飾れるほどの仕事だが、最近ではアルバイト感覚が浸透してきたという。
 近代的なビルや工場が次々と建設される広州。町並みや郊外の風景は雨後のたけのこのようにめまぐるしく変わるのが感じられる一方で、目に見えない中国の人たちの心情や考え方も変わりつつある。

・朝日放送ドキュメント・スペシャル「終わりなき葬列 発症まで30年、いま広がるアスベスト被害」取材班
(代表=宮沢洋・報道部ニュースセンターディレクター)
「割りばし」が語る中国の今 朝日放送報道局ニュース情報センター宮澤洋一

 2006年7月、1週間の日程で中国の大連市、煙台市、そして北京に行きました。目的は日本に輸出される「割りばし」の生産状況を取材するためです。日本で消費される割りばしの98%が中国産です。その中国が輸出価格の5割の値上げを打ち出し、将来的には生産(=輸出)自体を停止する可能性があるというのです。理由は、環境保護です。経済成長を続ける中国では、森林破壊や砂漠化が深刻で、使い捨ての割りばしに批判の矛先が向けられているのです。
 大連市のある割りばし工場は1日で250万膳を生産しています。材料は中国東北部で採れるシラカバなどですが、中国国内の建設ラッシュや環境保護のための伐採規制などがあって木材価格が急騰しています。このため、最近ではロシアから輸入した木で割りばしを作り日本に輸出する量が増えているということです。割りばしの生産停止に関して工場長は否定的でしたが、全国人民代表大会のある代表は「日本への輸出のために毎年250万本の木が切り倒されている」とした上で「生産停止の議論は今後8年以内に起こるだろう」と話しました。中国産割りばしは1膳が1円未満という安さで、日本市場を制覇しました。今のところ値上げによる深刻な影響はなく、日本企業も中国の出方を静観しています。今後、中国の環境問題と日本の関わりは、さらに重要な取材テーマになると思いました。
 今回、中国国内の取材を初めて経験しました。取材中は中国政府の役人が付き添い、自由に取材で動き回ることは出来ません。何より驚いたのは、毎晩開かれる「宴席」でした。アワビやナマコといった高級食材を使った料理が食べきれないほど出され、残ったものは捨てられてしまう、中国の文化なのかもしれませんが、その豪華な料理と旺盛な食欲に経済発展を続ける中国の姿を見た思いがしました。

・読売テレビ放送報道局ディレクター・十河美加
NNNドキュメント’05「赤ちゃんと語ろ~笑わない天使たちのSOS」
アンコールワットをたずねて 読売テレビ放送報道撮影部・稲津勝

 カンボジアの首都プノンペンの北西約300キロに位置するアンコールワットの町、シェムリアップ。素朴で小さな町だが、アンコール遺跡観光の拠点として、ホテルなどが次々に建設され、年々成長しつづけている活気のある町である。シェムリアップ中心地から北に車で20分ほど走ると、密林の中にアンコールワットが見えてくる。12世紀前半スーリヤヴァルマン2世によって30年余りの年月を費やし建造されたと言われるヒンドゥー教寺院(現在は仏教寺院)。東西1.5キロ、南北13キロにもわたる広大さに圧倒される。
 正面入り口の西参道は540メートルもあり、地盤沈下による石段の修復が行われていた。遺跡修復には世界各国の援助があり日本も政府のアンコール遺跡救済チームが旧王都アンコールトムの寺院バイヨンの保存修復などのプロジェクトに参加している。
 中央塔を囲むように4つの塔があり、それをつなぐのが第3回廊。そのまわりに第2回廊、第1回廊があり、数多くのレリーフが施されていた。ヒンドゥー教の天地創造の神話 「乳海撹拌」や「天国と地獄」の様子が描かれたものなど、どれも繊細で躍動感あふれる彫刻ばかりで、それを手の届く距離で見られるのには驚かされる。なによりも圧倒的なのは、 自然損傷や略奪、内戦などによる破壊の危機に見舞われながらも、約700年もの間この遺跡がここに存在していることに心底驚かされる。アンコールワット造営から半世紀後、周囲12キロの城壁に囲まれた王都、アンコールトムが建造される。敷地内にはいくつもの遺跡があり、その中心には仏教寺院バイヨンがある。ここには、建設者のジャヤヴァルマン7世が信仰した観世音菩薩の四面仏50基ほどがあり、その大きさは、顔だけで人の背丈ほどある。少し微笑んだその表情は、それぞれが違った顔になっていて、どこか馴染みのある雰囲気を感じた。
 世界遺産の指定によって、シェムリアップの町はこの10年でめまぐるしく変化していると聞く。人々の暮らしも良くなり、その一方で失われるものもあるのかもしれない。経済的に貧しい国を訪れるたびに強く感じるのは、幼い子供たちの輝くひとみで、そこには生の喜びを感じる。日本では犯罪の低年齢化や、未来に目標を持てない若者たちなどが増えている。豊かな我が国はいったい何をなくしてきたのだろうか。カンボジアの無邪気な子供たちのあの表情が、この先も変わらぬまま、そこにあってほしいと強く感じた。

第14回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

第13回坂田記念ジャーナリズム賞(2005年)

(敬称略)

第2部門(国際交流・国際貢献報道)

海外研修補助

・日本経済新聞大阪本社連載企画「アジアと関西」取材班
(代表=丸山兼也・大阪経済部次長)

 経済発展のパートナーとして交流を深めるアジアと関西アジア各地で奮闘する関西の企業、ビジネスマンらの活躍を読者に報告したいとの動機で半年間の連載がスタート。第1部「アジア10都市1000人調査」で、アジアの人々が関西に抱く関心の高さが東京に匹敵することを明らかにし、第2部では関西で活躍するアジアの人々をルポ。第3部では再び各地を取材し「衣」「食」「マネー」の分野別に躍動する関西企業を追い、最後はアジアに拠点を持つ関西企業にアンケート調査を実施。「中小企業がアジアで事業を拡大できるかどうかが今後の成長のカギ」といった課題をも浮き彫りにした。
 選考委員会では「関西企業、ビジネスマンらの活躍が生き生きと描かれていて興味深く読める。また、調査を通じてアジアの人々の関西への関心、関西企業のアジア戦略の次の一手など経済専門紙の特色を生かした取材活動が注目された」「日ごろ知っているようであまり知られていない関西の企業やビジネスマンたちの活躍や、アジアと関西の深いかかわりを改めて知ることができた。しかも具体的な事例を豊富に盛り込んで、読ませる工夫がある点 も読者に親しまれる記事としてすぐれた報道である」などと高く評価された。

・朝日放送ドキュメンタリー・スペシャル「終わりなき葬列 発症まで30年、いま広がるアスベスト被害」制作班
(代表=宮沢洋一・報道局ニュースセンターディレクター)

 アスベスト(石綿)による健康被害を社会問題化させるきっかけとなった番組。この放送が引き金となってクボタが記者会見を開き、社員被害の実態と工場周辺住民被害を公表した。 その後、各企業が被害を公表、国が対策を迫られることになった。番組では、アスベスト製造工場の従業員のみならず、工場周辺住民たちも特有のがんで死亡していることをいち早く描き、企業はもちろん、行政、医療など様々な機関が動いて、患者救済と今後の被害拡大 を防ぐよう訴えた。
 選考委員会では「アスベスト健康被害を医学的にもきっちり説明し、アスベストを扱う仕事に従事していた人だけでなく、工場周辺に住み知らず知らずのうちにアスベストを体内に吸い込んだ人たちの被害を取り上げることができた取材力を買う。21世紀に明るみに出た新しい公害を映像化できたのは非常に価値がある」「アスベストによる健康被害の重大性をいち早く目に見える形で訴えた点で、その後の報道合戦のきっかけとなった。今後、追跡調査、患者救済などについて番組の続編を期待したい」などと評価された。

・読売テレビ放送報道局ディレクター・十河美加
NNNドキュメント’05「赤ちゃんと語ろ~笑わない天使たちのSOS」

 児童虐待、育児放棄、育児不安を抱える親たちが増えているなか、この番組は人生の原点である親子関係の構築を赤ちゃんとの「対話」から探る助産師を追ったドキュメンタリーである。赤ちゃんは実は大人の表情や環境を敏感に感じ取り全身で強いメッセージを発している。そのメッセージを受け止め、受け入れることで、親子の絆が深まる。番組はこうした現実に焦点を当て、幼い命の賢さ、強さを伝えると同時に、密室での生活、情報の氾濫など悪しき育児環境や、親子をサポートすべき保健行政の空白を指摘。赤ちゃんの素晴らしさを大人が学び認識することが打開策の一つであることを訴えた。
 選考委員会では「高度経済成長の中で核家族化が一挙に進み、子どもを産み、育てるノウハウが崩壊した。その結果がこの番組に表されている。大家族だった昔の育児に代わる方法を考える時が来ている。育て方の伝授、子ども同士の交流、両親での集まりなど、番組が取り上げたような試みを全国に広げていくことが必要だ」「本番組は少子化問題の断面を見事に描き出し、その打開の道を指し示すユニークで優れた番組である。助産師のひと言ひと言が若いお母さん方を励まし、赤ちゃんのすごい生命力や人間の可能性に気づかせてくれる」などと評価された。

昨年の研修

・読売テレビ放送エグゼクティブ・プロデューサー・中川禎昭
「紅紅(ホンホン)の旅立ち~中国・黄土高原に生きる~」
「戦後の戦争」~占守島を訪ねて~・中川禎昭

 占守島(シュムシュ)は、ロシア・カムチャツカ半島のロバトカ岬から海峡を挟んで13キロ南に位置する。南北30キロ、最大幅20キロの、千島列島最北端にある平坦な島。北海の豪商・高田屋嘉兵衛が19世紀の初めに入港したというペトロパブロフスク・カムチャッキー市から、眼下に野生の熊の群れを見たあと、海峡を越え、2時間余りでヘリは占守島の松の上に着陸した。9月というのに、気温は5度。天候は霧で目まぐるしく変化する。
 占守島で国土防衛にあたっていた日本軍には、あの「玉音放送」が届かず、終戦を知ったのは8月16日で、翌17日からは武装解除の準備に入っていた。そして18日未明、およそ7000人のソ連軍が、この島に侵攻する。これに続いた北千島戦では、日本軍350人、ソ連軍2000人余りの犠牲者が出たという。
 占守島にはほとんど立木といったものがなく、雑草の中に旧日本軍の戦車や砲台10数台が60年間野晒しとなっており、ソ連軍が上陸してきた竹田浜では、静かに波が打ち寄せていた。
 現在、この島にはロシアの国境警備隊員数人が駐在しているほかは、灯台守のロシア人老夫妻が暮らしているだけであるが、かつては250家族ほどの日本人が住んでいたということで、缶詰工場の最盛期には1万人もの日本人が 往来したという。そして、1990年頃まで2人の日本人が生活していたとの記録も残されている。
 ベトロパブロフスクカムチヤッキー市に引き返し、クリル(千島)列島解放モニュメントのある広場に向かった。記念碑には「我々は日本の侵略のために戦い、自国の領土を取り返した」と記されており、400人ほどの戦死者の名が刻み込まれていた。
 街で知り合った元ソ連軍兵士で、占守島で日本軍と戦ったという老人と親しくなり、彼のダーチャ (家庭菜園のある郊外の家)に招かれた。彼のダーチャは市内から50キロほどの、 白樺と黄色く染まり始めた潅木の林の奥にあった。
 「あなたたちが占守島に攻めてきたとき、日本はすでに降伏していた」と話しかけると、彼は「当時、私のような若い兵士にはそんなことは知らされていなかった。日本軍がカムチャツカ半島に上陸してくると聞かされていた」との答えが返ってきた。
 名物のニシンの塩漬けと菜園でとり立ての野菜をご馳走になったあと、市内に戻る車中からは、その日も占守島からシベリアに抑留された旧日本兵が、カムチャツカ富士と呼んで故郷を偲んだ、アパチャ山の美しい稜線が望まれた。

・朝日放送報道局記者・藤井容子
ドキュメンタリー・スペシャル「僕って?~教育の新たな課題、軽度発達障害~」
また、再びの大陸~2005年夏、中国・北京へ~・藤井容子

 記者になって7年。オフで海外に行くことなどありませんでした。この貴重な機会に、母とともに中国へ。私にとっては初めての中国でした。もう70歳近い母はといえば、かつて中国で暮らしたことがありました。故宮や天安門 広場といった観光名所めぐりが主でしたが、中でも一番印象的だったのは万里の長城でした。北京の北西70キロにあり、多くの観光客が日帰りで訪れる八達嶺という登城口から登りました。
 歴史資料などを調べてみると、万里の長城は、すでに紀元前7世紀頃から建設が始まり、巨大な姿になったのは、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝の時代。とくに、その建設に力が入れられたのは明の時代(1368年~1644年)。つまり、他民族(モンゴル族)による支配を受けた後でした。私たちが訪れた八達嶺の長城は明の時代のものです。万里の長城が、他民族の侵入を防ぐという目的ではないにせよ、最後に使われたのは抗日戦争のときだそうです。万里の長城の歴史は、中国の歴史そのもの。高さ8メートル、レンガの地面を 踏みしめて重厚な何かを感じるのは、当然かも知れません。
 一緒に旅した母は、どのように感じていたことでしょう。母は、7~8歳くらいのころ中国で暮らしていたのでした。母の父親が満州鉄道の幹部だったため、家族で満州に居住。母たちも含めて、当時中国に赴任した日本人は裕福そのものだったといいます。しかし、戦況が変化すると身の危険もあったようで、父親が死亡した後、母たち家族は父親の部下の尽力があったからこそ、日本に引き揚げることができたのだと聞きました。
 そんな母は常々、「もう一度、中国に行きたい」と話していたのでした。およそ60年を経て、まさに、その大陸に、再び渡ったわけで、時折、感慨深い表情を見せていました。もしも、時代に翻弄された人生を見つめ直せたのなら、少しばかり 親孝行できたのではと感じています。

第13回坂田記念ジャーナリズム賞の詳細ページを開く

坂田賞一覧