第33回坂田賞授賞式 2026年3月25日
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お知らせ
| 2026.03.17 | 第33回坂田記念ジャーナリズム賞が決定しました |
| 2025.12.22 | 第33回坂田記念ジャーナリズム賞実施要領 |
| 2025.03.31 | 第32回坂田記念ジャーナリズム賞が決定しました |
| 2025.01.28 | 第32回坂田記念ジャーナリズム賞実施要領 |
坂田賞――多様な社会のために
大阪は日本における近代ジャーナリズムを育み、全国に発展させた地と言えます。この地で産声を上げた新聞が日本を代表する新聞となり、この地で育ったジャーナリストが日本のジャーナリズムを支えている例もまた枚挙にいとまがありません。民間放送の第一声もこの地から発せられました。「論より事実」「口より足」を重視する報道活動は大阪ジャーナリズムと呼ばれ報道記者の規範の一つになっています
坂田記念ジャーナリズム振興財団設立趣意書より
私たちの社会は「多様性」を何よりも必要としています。東京への集中が進む中での「大阪ジャーナリズム」は、マスコミの複眼構造を支える大事な存在であり、多様で豊かな社会の発展に不可欠です。
レジェンドであり、進行形の歴史でもある大阪・関西ジャーナリズム。当財団の顕彰の記録はそのインデックスの一つです。
原子野に消えた部下を探して
~坂田ジャーナリズムの原風景
坂田勝郎は、広島に原爆が落とされた時、毎日新聞広島支局長だった。その時は一時的に広島を離れていて被爆を免れたが、支局の記者や職員が命を落とした。親交のある他紙でも同様だった。晩年にジャーナリズムの振興を志した坂田の原風景である(文中敬称略)。
「死の街」に帰還
跡形もない広島支局
広島への原爆投下から2日後の1945年8月8日、当時、毎日新聞広島支局長だった坂田勝郎(被爆時40歳)は、広島市西郊の己斐(現・西広島)駅にようやくたどり着いた。妻子を疎開させるため、妻の郷里である熊本県へ連れて行き、6日早朝に帰途についたが、西日本の交通は寸断され、到着に2日を要した。プラットホームに降り立った瞬間、坂田は地獄の恐怖を感じた。ずらりと皮のはげた裸の遺体が並べてある。駅の屋根は飛び散って崩れ、近くの山のいたるところから煙が立ち上っていた。聞くと、死骸を焼いている煙だった。
駅周辺には点々と死体が転がっていた。毎日新聞広島支局のある市中心部の大手町3(現中区大手町2)まで、2㌔余の道のりだ。太田川を渡っていくが、川面には死体が浮かびながら流れていた。「私は膝ががくがくふるえていた。かつての繁華街も全く死の街となっていた」と、坂田は述懐している。
広島に残っている支局員2人と事務員の安否を確認しなくてはならない。坂田が着任した1944年3月には約10人の支局員がいたが、次々と応召され、1945年6月ごろには重富芳衛記者(同37歳)と坂田の2人になっていた。このため、坂田は広島県三原市の三原通信部にいた山口勝清(同40歳)を広島支局に呼び寄せていた。
原爆ドームに近い広島支局があった一帯は、爆風と衝撃波によりほとんどの建物が倒壊し、そこへ猛火が襲って焼け焦げ、さながら廃墟と化していた。支局跡には燃え残りの柱一本もなかった。転がっていた支局の庭石に消し炭で「支局に御用の方は、臨時県庁へ」と書いてあるのを見つけた。重富の字だった。生き延びたようだった。
山口記者と女性職員2人は被爆死
翌9日、坂田が広島市の東警察署に置かれた臨時県庁へ向かっていると、「坂田さん、生きていましたか」と呼び止められた。毎日新聞大阪本社から広島の状況を確かめにきた社会部記者の西尾彪夫(同31歳)と大阪写真部の国平幸男(同28歳)だった。2人は急いで大阪へ戻って新型爆弾による惨状を報告しなくてはならず、坂田とは数言をかわしただけで別れた。国平はその背中を終生、胸にとどめた。「坂田支局長の肩を落としたさびしげな姿が忘れられない」と50年後に書いた。
臨時県庁には、負傷して痛々しい姿の重富がいた。再会を喜ぶ間もなく、重富が「山口君は見つからない。支局跡にも死体はなかったが、恐らく死んだのでしょう。気の毒なことをしました」と言い、涙ぐんだ。
原爆投下の6日午前8時15分の4時間ほど前まで、重富は広島支局で宿直だった山口と雑談をしていた。山口はアナキスト(無政府主義者)で軍国主義下、労働争議の支援をして入獄したこともある。広島県福山市出身で、小説も書き、同郷の井伏鱒二とも交流があった。だが、生活に困窮して毎日新聞に入る。山口は重富に対し、「こんなに毎晩(空襲の)警報が出ては神経衰弱になるぜ。役人も軍人も疲れているが、僕も疲れた。もう逃げも隠れもせんよ」などと捨て鉢気味に語ったという。当時の当直といえば万一に備えて国民服にゲートルと決まっていたが、寝間着に下駄履き姿だった。
重富の妻は午前7時に建物疎開の勤労奉仕に出る予定だった。話は尽きなかったが、未明に徒歩10分ほどの自宅へ帰った。少し寝て起きた後に被爆するが、重傷は負いながらも奇跡的に命をとりとめた。
この日、別の支局員の有沢和夫(同25歳)も広島へ戻ってきた。広島支局跡のがれきを掘り、同僚の遺骨を探したが、骨は拾えなかった。10日も支局跡に向かったが、坂田らがよく釣り糸を垂れていた支局裏の元安川には死臭が漂い、満潮の流れにのって、死体が川下から逆流してきたという。ところどころの杭にかかった遺体は、もう人の形をしていない。「その一体々々から家、肉親を求める叫びが聞こえるようだった。幾万もの霊がまだこの広島を去らずにさまよっている。落日のなかで死体を焼く火が鬼火のように、あちこちで燃えはじめた」と書いている。
広島支局で事務や清掃の仕事をしていた阿村マツ(同42歳)、中井ヨシエ(同19歳)の行方もわからなかった。後に死亡が確認されるが、出勤時に被爆したとみられる。坂田らは山口と合わせて3人の追悼法要を1945年12月に広島市郊外の寺で催した。
重富記者は後に原爆症で死亡
重富は爆心地から約500㍍の近距離で被爆し、同じ条件の被爆者はほとんどが亡くなったにもかかわらず、その後の15年間、放射線障害に無縁であるかのように元気だった。ところが、1960年に原爆症を発症し、翌年に53歳で死亡する。死を前に、重富は自ら発行していた情報誌に「恐るべきかな原爆。私は16年ぶりに無条件降伏をした」の言葉を残した。
1945年8月15日に新支局長と交代して坂田は広島を離れて新たな勤務先の大阪本社へ向かう。その後、原爆について多くを書き残していない。不在の間の部下の死が、坂田にはこたえた。毎日新聞の同僚によると、「坂田はあのとき死んだ。それからは余生だ」とよく口にしたという。
山口の残された妻と娘、息子の3人が戦後、生活に苦労していると知った坂田は、毎日新聞神戸支局の食堂の賄いの仕事を山口の妻に斡旋し、支局内に小さな住まいも用意した。被爆から40年後、坂田は山口の長男、明(被爆時1歳)に会う。被爆時の父の状況を説明し、「あなたのお父さんは、大変文章の上手な方だった」などと生前の姿を伝えた。
坂田はその後、毎日新聞大阪本社代表、毎日放送会長などを歴任し、1990年に亡くなる。死後、私財が寄贈され、坂田記念ジャーナリズム賞が創設された。
広島に原爆犠牲新聞労働者の碑
広島市の平和記念公園に近い同市加古町には、中国新聞労働組合が「不戦の碑(原爆犠牲新聞労働者の碑)」を1985年に建立し、以来、8月6日に碑前祭が開催されている。石碑には中国新聞114人のほか、同盟通信(現在の共同通信と時事通信)8人、毎日新聞4人、朝日新聞2人、読売新聞2人、西日本新聞2人、合同新聞(現在の山陽新聞)1人の計133人の名前が刻まれている(2026年時点)。
【坂田記念ジャーナリズム振興財団事務局長 戸田栄】
(2015年から毎日新聞に連載した「恐るべきかな原爆~記者16年目の無条件降伏」をもとに紹介しました)
