第20回坂田記念ジャーナリズム賞(2012年)

(敬称略)

第20回坂田賞授賞理由

第1部門(スクープ・企画報道)

新聞の部

【坂田記念ジャーナリズム賞(1件)】
★読売新聞大阪本社「災後を生きる」取材班
 代表=永田広道・編集局次長
 東日本大震災後の防災・減災に関する年間企画「災後を生きる」

推薦理由

 読売新聞大阪本社は、阪神大震災以降、防災・減災に関する報道に積極的に取り組んできたが、東日本大震災を受け、津波被害など新たな対応が不可欠になってきたことから、南海トラフ大地震など来るべき災害で1人でも多くの命を守るにはどうしたらよいかを考える年間企画「災後を生きる」を2012年1月から開始した。第1部は想定外の被害実態、被災者の現状と対策、支援のあり方を、第2部は「逃げる」と題し、迅速な避難行動の必要性と長期避難の課題、第3部「都市に潜む危機」、第4部は新たな自然災害の脅威とその対策を考える「襲いかかる風雨」、第5部「復興の企業力」などを展開、最終第6部では「識者に聞く」で災害への備えと心構えを訴えた。取材範囲は東日本大震災の被災地から豪雨被害の多い九州・沖縄に及び、今後も防災・減災を重要テーマにしていく。

授賞理由

 阪神大震災以降、メディア各社は大災害に関する防災・減災に関する報道を展開してきたが、今回の作品は津波被害など新たな災害への対応を読者への警鐘として幅広く、多面的に取り上げ、興味深かった。
 東日本大震災で想定外の被害実態や被災者への支援のあり方ばかりでなく、「災後を生き る」ため論点を、関西、西日本の被害を想定して端的に訴えかけてくる手法にも斬新さがあ った。長期避難や帰宅困難者の問題、超高層ビルや地下街の危険性、深層崩壊や竜巻などへの対応などきめ細かな注意が指摘され、実際に役に立つだろうと思えた。但し、注文を付けるとすれば、災害復興を妨げるものに対する追及が物足りない点があり、また「識者に聞く」という従来通りのパターンを超えて、取材記者の立場から、より積極的に提言、提案が欲しいところだ。

【坂田記念ジャーナリズム賞特別賞(2件)】
★日本経済新聞大阪本社「現場百景」取材班
 代表=葛西宇一郎・写真部長
 連載企画「現場百景」

推薦理由

 関西には歴史、文化に限らず、商都・大阪に代表される経済・産業活動、iPS細胞やスパコン「京」といった先端技術など、日本だけでなく世界をもリードしてきた「創造・誕生の場」がある。その躍動、熱気を写真で切り取り、その背景を綴る文章とともに伝えられないか、との思いから夕刊「いまドキ関西」の連載企画「現場百景」を2011年10月から始めた。
 「仏師の工房」(2011年11月15日)では東日本大震災を受け、鎮魂と復興の祈り込めた子安観音にノミを入れる京都市の工房を取材した。制作中の仏像だけに取り囲まれた静寂の中でノミの音だけが響く。見出しにもあるように「現世の辛苦を刻み、包む」現場だった。またスパコン「京」(2012年1月24日)ではスパコンそのものでなく、計算機が入ったビルの屋上に取り付けられた冷却塔に焦点を絞った。「ゴー」という音とともに上空10mまで上がった水蒸気が朝日に照らされ、神々しいほど。当時、世界最速だった計算性能ばかりが注目されたが、この報道で冷却対策の現場にも見学者が増えているという。このほか、「京手ぬぐいの生産」(11月20日)には「郷土の技術に誇りを持った」、「リチウムイオン電池の鉛」(12月7日)には「こんなハイテクが大阪に」など多くの反響があった。12月末で連載60回を超えた。関西の“現場”の臨場感を発信できた連載企画である。

授賞理由

 関西各地の「創造・誕生」の現場を達意の文章と写真で伝える企画だ。写真がダイナミックで美しく、仕事の現場を生き生きと伝えている。時に関西の地盤沈下が伝えられる昨今であるが、京都の舞妓の修行といった歴史・文化の伝統をしのばせる“現場”から、先端技術を駆使したモノづくり、海難事故や緊急医療などに使う高性能飛行艇など「おや、こんな仕事があったのか」……などあらためて関西の地力を教えてもらった思いがする。読者にも自分たちが住む日本社会への自信がわいてくるだろう。あえて注文を付けるならば、「現場」という括りがやや拡散している感があり、「伝統 の継承」「モノづくり」といった、フォーカスを絞った企画も期待したくなる。

★共同通信大阪支社社会部いじめ取材班
 代表=名古谷隆彦・社会部次長
 「大津市の中2男子自殺をめぐる一連の報道」

推薦理由

 大津市で2011年10月、市立中2年の男子生徒が飛び降り自殺した。大津市教育委員会はいじめの存在は認めたが、一貫して「いじめと自殺の因果関係は判断できない」と主張。しかし、全校アンケートで複数の生徒が「男子生徒が自殺の練習をさせられていた、と聞いた」などと記述していることが、入手した資料から判明、スクープした。大津市長は第三者による外部調査委員会を設置、滋賀県警が学校現場に強制捜査に入るなど異例の展開を見せ、文部科学省もいじめの緊急調査を実施するなど社会全体でいじめ問題に取り組む大きなうねりになった。ただ、自殺に至った背景には不明な点も多く、取材班は自殺生徒の周辺で何があったのか、「じゃれあい」がなぜいじめに発展したのか、を丁寧に報道する必要を感じ、いじめ連載企画「しまい込んだメッセージ」を出稿。さらに第2部「真相に届かない」では、学校の不誠実な対応に苦しみながらわが子の死の真相を追い続ける遺族を取り上げ、 悲しみの中で何を見いだしたのかを探った。さらに2013年1月も第3部「先生はどこに行った」も展開。連載は加盟紙20社以上に連載された。

授賞理由

 「いじめ」による少年、少女の自殺が社会問題になって久しいが、今回の大津市の中2男子生徒の自殺は、「自殺の練習をさせられていた」ことがアンケートから明るみに出、さらに滋賀県警の強制捜査が行われたことから、大きな衝撃力を持つ事件になった。
 取材班は、学校、家庭、周辺の関係者への丹念な取材を重ねて連載を続けた。因果関係は必ずしもクリアになったとは言えないが、閉ざされた教育現場の壁を突破して真実に迫ろうとする記者たちの努力は伝わってくる。
 いじめの問題に特効薬はないにせよ、今各地で第三者による原因究明のための調査委員会の設置も始まっている。事実を伝え、世論を喚起し、事態改善に結びつけた報道として評価したい。

放送の部

【坂田記念ジャーナリズム賞(2件)】
★朝日放送報道局ニュース情報センター取材班
 代表=西村美智子ニュース情報センター記者
 ドキュメンタリースペシャル「復興の狭間で~神戸 まちづくりの教訓~」

推薦理由

 阪神大震災からの「復興のシンボル」と呼ばれ、巨額の税金が投じられてきた神戸市長田区の再開発地区。復興を急いだ神戸市当局は、商店街の人々の思いとかけ離れた防災優先の高層ビルの街を作り上げた。あの震災から17年、そこには人影もまばらな商店街になっている。シャッターが閉じられた光景が目立ち、営業する商店主たちは金銭的な問題に苦しみ、 借金地獄に頭を抱えるばかりの日々を送っている。一方、東日本大震災で津波による大被害をこうむった宮城県気仙沼市でも同じことが起ころうとしていた。神戸市長田区の現状を視察した気仙沼の商店主たちは「身の丈にあった街づくりを」と立ち上がった。
 この番組では神戸長田の今と気仙沼の今を密着取材、大災害からの復興の街づくりの難しさを浮き彫りにしている。

授賞理由

 被災地の復興について「元通り、にぎやかな商店街に」という目的が達成できない姿を神戸市長田区に探り、“復興災害”とも言える現況を克明に追った。神戸の姿を描く際、当然、今回の東日本大震災の被災地の復興の課題が視野に入り、具体的には宮城県気仙沼市の商店主たちが長田の再開発地域と商店主たちを訪れ、意見交換する場面から、着眼点の鋭さがテレビ的な調査報道の傑作としてうまく表現された。
 テレビは一般的に現在を投影することには優れているが、この作品は現象の裏で進行する社会現象の矛盾を過去と現在をつなぐ形で、また神戸と東北を複眼的に見ることで大災害がもたらす傷跡の深さを訴えている。

★サンテレビジョン報道制作局報道部記者・井田和秀
 ドキュメンタリー「花在ればこそ吾もあり~世界的植物学者を支えた神戸人」

推薦理由

 この作品は1本の電話から始まった。高知県立牧野植物園から「牧野富太郎先生が植物採集をしている様子を撮影したフィルムがサンテレビさんに保存されているらしい」というものだった。日本植物学の父と呼ばれる牧野富太郎は兵庫県の花「ノジギク」の命名でも兵庫県内では知られ、「これは」と井田記者らが探るとサンテレビの倉庫で眠っているのが分かった。そして、このフィルムは、1937年(昭和12年)兵庫、鳥取県境の氷ノ山で行った学術調査の様子を記録したもので、撮影者は岡部芳郎氏であることが判明した。さらに調査を進めると、岡部はアメリカの発明王・エジソンの研究所で働いていたただ 1人の日本人助手で、帰国後、故郷の神戸でエジソンのキネトフォンを利用して映画を制作、上映するなど先駆的な撮影技師であることが判明した。驚きはさらに広がった。牧野は神戸の資産家・池辺盈の援助で神戸市兵庫区に植物研究施設を構えていたことも判明、しかもここは岡部 の自宅のそばだったのだ。この意外な展開を丹念にドキュメント番組にしたのが今回の作品で、世界的植物学者とエジソンが二人の神戸人によって結ばれていたことを明らかにした。

授賞理由

 この番組はいくつかの発見で構成されている点に見応えがあった。推薦理由で触れてい るように、神戸の資産家・池辺盈や神戸出身でエジソンに師事した岡部芳郎である。何気な い教養番組に見える半面、先駆的な撮影技師と世界的な植物学者とを結ぶドキュメンタリーとして一種、文化的スクープとも言える。また発端が高知県立牧野植物県からの情報提供 (問い合わせ電話)とはいえ、サンテレビという兵庫のU局として神戸に話題を集中させた手法も興味深いものがあった。埋もれた資料の発掘が意外な事実の発見につながった好例でもある。
 今後、さらに視野を大きく広げ、エジソンと岡部のつながり、また岡部が日本の映画史上で残した功績などを追跡するなど一層発展した番組が期待できるし、またサンテレビがそうしてくれるよう要望するのもこの賞を授賞する理由の一つである。

第2部門(国際交流・国際貢献報道)

新聞の部

【坂田記念ジャーナリズム賞(1件)】
★毎日新聞大阪本社社会部「あなたの愛の手を~海を越えて」取材班
 代表=平川哲也・社会部記者
 長期企画「あなたの愛の手を~海を越えて」キャンペーン

推薦理由

 貧困など困難に直面する海外の子どもたちに光を当ててサポートする、そんな「寄り添う新聞」でありたい――取材班の小さな思いをこめて、大阪府内版で連載を2002年1月1日から開始、週1回で間もなく500回を迎える。NGOや市民団体の協力で経済的理由などから教育を受けられない海外の子どもたちを写真入りで紹介。年2万円程度の支援と手紙のやり取りなどで精神的に支える「精神里親」を11年間募ってきた。この企画は現在、四国4県でも掲載され始めた。
 毎日新聞には養育里親を探す「あなたの愛の手を」という、48年続くロングラン企画がある。また内戦などで生命の危険にさらされる子どもたちに手を差し伸べる「世界子ども救済キャンペーン」の蓄積もある。これまでに紹介した子どもは3~19歳の472人。国別ではインド133人▽中国112人▽バングラデシュ65人▽ネパール58人▽エチオピア38人▽カンボジア31人▽ラオス18人 ▽フィリピン9人▽タイ5人マケニア3人の10か国に及び、ほぼ9割の子どもたちの精神里親が決定した。担当者の1人は自ら精神里親になり、“わが子”と対面したレポートを毎日新聞夕刊で掲載するなどもしており、初心を忘れず、この輪が広がるよう取り組んでいく。

授賞理由

 この連載記事は毎日新聞が長年にわたって培ってきているメディアの社会福祉貢献活動の一環として手堅い手法で構成された優れたキャンペーン活動である。読者に自分の位置でできる国際貢献とは何かを考えさせ、また参加させる機能も果たしている。ともすれば読みすごしがちのこともあるが、今回、まとめて里親たちの声、成長した子どもたちの紹介記事を読んで認識を新たにした。とりわけ、里親たちの声が心に残る。「大学に行きたいと言っていた娘を進学させられなかった」「太平洋戦争中、日本がしたことの反省の気持ちから」などと、里親になった動機はさまざまであるが、里親になって自分がなにかを得ていると語る。与えることは与えられること、その相互作用をあらためて思う。代表者の平川記者が自分の歩みを振り返りつつ、ボランティアの先駆者や現地への旅を記した記事も興味深い。社会貢献というジャーナリズムの「もう一つの役割」の意義を考えさせる。継続こそ力だ。

放送の部

【坂田記念ジャーナリズム賞特別賞(2件)】
★テレビ大阪報道部「深耕アジア」取材班
 代表=花本憲一・報道担当部長
 ドキュメント「深耕アジア 甦る!シルクロード“中央アジアを耕せ”」

推薦理由

 多くの日本企業が成長するアジアに進出する中、シルクロードの通過点という他は日本ではなじみの薄いカザフスタンを取り上げ、沸騰する現場や日本、中国、韓国の企業が進出にしのぎを削る様子を多面的に映像化した。ある中国人ビジネスマンに密着取材、石油など豊富な地下資源で経済成長を続けるカザフスタンの現状や、共同開発によって資源を狙う中国の戦略、リスクを恐れない中国人のビジネスへの姿勢、しかしその中国に対する新興国側の不信感なども描いた。またその地に拠点作りを目指す日本の物流会社の先遣隊が直面した工期の遅れや設計ミスなどの苦労も伝えることができた。日中関係が尖閣諸島の領有問題をめぐって緊張状態にあり、反日デモも発生する中、国境地帯に何度も取材に赴き、現地の様子をリアルに伝えられた。日本、韓 国、中国の動きを通じてカザフスタンの胎動を伝えられたことで、今後の日本とアジアの関係を見据える番組になった。

授賞理由

 この作品の優れた点は、経済のグローバル化という現代の潮流を旧ソ連のカザフスタンに探ったことだ。日本の物流企業が拠点作りを目指して苦労する場面、また中国や韓国の企業がその様子を見ながら、あるいは輸出市場を、あるいは資源を求めて暗躍する姿が活写されていることだ。その過程で起きるそれぞれの国の事情とビジネスモデルの特徴が描かれ、今後の日本経済のあり方、現地で信用されるビジネス活動を描いて興味深い。ラストで、困難に陥った日本人ビジネスマンが勇気を奮い起こすために必ず訪れる第二次世界大戦でのシベリア抑留者の墓が印象的だった。歴史の重みに思いをはせる余韻が伝わってきた。

★読売テレビ放送報道局報道部記者・金崎浩
 NNNドキュメント’12「技術売買~ある中小企業の決断~」

推薦理由

 多くの中小企業がモノづくりの技術を競ってきた大阪府東大阪市。そこの加工会社に焦点を当て、生き残るため、創業から30年間培ってきた塗装技術を中国企業に売却する苦渋の経営者の姿を描く。この経営者は2012年3月、中国・上海での大規模な商談会に臨んだ。中国企業関係者で溢れた会場は、基盤技術を得ようとする熱気に溢れていた。厳しい国内の経営環境の中で「あるのは技術。今なら売れる」と心に決めていた経営者は、その技術を数千万円で売ることになった。東大阪の企業経営者には同様に考える人も多いが、必ずしも成功するとは限らない。中央であれ、地方であれ政府要人を介さないビジネスには、契約金が振り込まれないなどリスクが付きまとう。
 この番組を通じ、企業の命ともいうべき技術を売った後、中小企業には何が残るのか、こんなことが連鎖的に進んだ後、技術立国と言われたこの日本には何が残るのか。また技術を手に入れた中国は日本にとってどんな存在になるのか、この番組は岐路に立つ日本のモノづくりの現状と苦悩を伝えるものになった。

授賞理由

 東大阪市にある中小加工会社の一つがその経営の苦しさから、自社開発の技術を中国企業に売り、中国現地での共同事業を立ち上げようとする過程で起きるさまざまな困難を、日本経済が今日迫られている知的財産の観点から取り上げた力作と言っていい。大切に培った技術を売らざるを得ない経営者の姿に、「技術売買」はすでにここまで進んでいるのか、 と知らされる。そして日本を支えてきたモノづくりは一体どうなるのか、視聴者はしばし考えさせられるであろう。
 ただ、経済のグローバル化の中で、特許など知的財産は大きな経済的価値を生み出そうとしているが、こうした特許、商標など最近の流れを数字的に示しながら全体像を示せたらもっと説得力があったと思われる。

第1回東日本大震災復興支援坂田記念ジャーナリズム賞

新聞の部

【東日本大震災復興支援坂田記念ジャーナリズム賞】
★河北新報社編集局報道部
 代表=今野俊宏・報道部長
 東日本大震災の被災者らを描く連載「これから~大震災を生きる」

推薦理由

 東日本大震災において、河北新報社は被災地に根差す新聞社として「被災者に寄り添う」を掲げ、総力を挙げて震災報道に取り組んできた。多くの課題に直面する被災地の実態を克明に伝えるとともに、復旧、復興や支援の動きを追い掛けてきた
 連載「これから~大震災を生きる」は震災から半年を経た2011年9月中旬から掲載し続け、13年2月までに計14部97回を数えた。それぞれの部で「仕事」、「遺児」、「仮設暮らし」、「こころ」、「興す」などのテーマを掲げ、被災地で生きる人々の姿を描いてきた。被災者はどんな苦難を強いられているのか、何を希望に託して暮らしているのか。復興を支える人の思いはどこにあるのか。被災地で育つ芽はないか。被災者に重くのしかかる課題や制度的な問題を提起するとともに、被災者の痛みを共有し、震災を乗り越えようと奮闘する人々の希望も伝えてきた。記事の成果としては、病気遺児などもともと遺児家庭で被災した世帯に支援が少ない、との指摘に対し、遺児を支援する「あしなが育英会」は見舞い金を送るなどした。また震災直後からの記者たちの活動をまとめた「河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙」も出版した。

授賞理由

 河北新報社は本社のある仙台市を中心に東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島3県を含む東北各地に支局など取材網を展開する当該地域最大の新聞社である。地震と津波そして原発事故の被害を伝えるというメディアの使命を果たすとともに、会社とそこで働く記者自身が被災者でもあり、今回の震災では究極的な次元におけるメディアとジ ャーナリズムの真価が問われたが、社長から末端の記者、新聞配達に関わる人たちまで称 賛に値する仕事をしたことは、今回応募の連載などの日々の新聞記事にもよく表れていた。 特に「仕事は役に立っているのか」、「正しい判断だったか」、「現場に戻らないと一生立ち 「直れない」 ……と内面を揺さぶられ、もがきつつ原稿を書き、写真を撮った。だから新聞は力をもったのだ、と実感させられる。奮闘ぶりは新聞以外にも「河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙」、「河北新報縮刷版 3.11東日本大震災1ヵ月の記録」、「東日本大震災全記録 被災地からの報告」などで十分知ることができる。

★石巻日日新聞社
 代表=近江弘一社長
 「6枚の壁新聞」

推薦理由

 石巻日日新聞は、1912年(大正元年)創刊され、昨年創業100年を迎えた地域新聞社で、 宮城県石巻市に本社を置き、隣接する東松山市、女川町の2市1町が有力な配布対象地域である。東日本大震災では津波が社屋に押し寄せ、輪転機が水没、新聞発行システムは機能不全に陥った。この状況下でも社長は「地域の非常時に新聞を発行しないで何が新聞社だ。 何もしないことは自分たちの存在を否定することだ」と叫んだ。この言葉は新聞発行をあきらめかけていた社員の、新聞人としての誇りをよびさました。若い記者たちからは「大震災や大津波とはいえ、自分たちの代で新聞を発行しなかったという記録は作りたくない」との意見が出、多くの賛同を誘った。また戦時中の先輩たちが、言論統制の中でもわら半紙に鉛筆で記事を書き、町内に配布していたという古い伝説も甦った。
 議論を聴いていた社長は「先輩たちのようにペンと紙さえあれば、伝える仕事はできる」と方針を定め、水に浸からなかった新聞用紙とフェルトペンで震災翌日から手書きの壁新聞を作成、6日間、避難所やコンビニの店頭に張り続けた。会社に電気が通じたのは3月19日。輪転機が何とか動き出し、以来配布エリアを広げ、印刷された新聞を避難所が閉鎖されたその年秋まで無償で配布し続けた。この時の記録は「6枚の壁新聞――石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録」として出版した。

授賞理由

 大災害などで通常の新聞発行が不能となった時、新聞社は、また記者は何が出来るか? 石巻日日新聞社は伝統ある地域新聞であり、地域の信頼を得て来た。その地域が地震と津波で壊滅的な打撃を受けたのである。この時、「被災地のために新聞の発行を続け、正確な情報を地域に流すのが使命」というジャーナリズム魂が発揮されたのである。推薦理由にあるように、戦時中の権力の弾圧に、わら半紙に事実を手書きして読者に回したという記憶が記者を始め社員全員の心に甦り、「手書きの壁新聞」が実現した。電話もメールもテレビも途絶えた中、孤立した被災地の人々は切実に情報を求め、避難所などに張られた壁新聞はその一灯になったのだ。石巻日日新聞社の震災直後の活動はメディアとジャーナリズムの原点として内外で評価され、外国メディアでもたびたび紹介された。

放送の部

【東日本大震災復興支援坂田記念ジャーナリズム賞】
★福島中央テレビ報道制作局
 代表=佐藤崇・報道制作局長
 「福島第一原発1号機、3号機の水素爆発に関する報道など」

推薦理由

 東日本大震災翌日の3月12日、福島中央テレビはメディアとして唯一、東京電力福島第一原発1号機の水素爆発の瞬間を撮影した。東京電力も国、福島県も事態を把握しておらず、何があったのか確認できる情報がまったくない中、4分後には県内に向けて緊急放送を、また1時間後にはキー局日本テレビを通じて全国放送した。これによって首相官邸も原発で起きている異常事態を初めて知ることになる。しかし、国や東京電力が正式に「水素爆発があった」と発表したのは5時間も経ってからだった。この水素爆発の映像は「原発の安全神話の崩壊」と「日本の危機」を伝える情報として全世界を駆け巡った。あの日から、福島の県民の放射能との闘いが始まり、今後、何十年あるいはそれ以上、放射能と向き合うことになる。福島中央テレビはあの日以来、福島に暮らす人々に寄り添って日々のニュー スを放送しようと苦闘してきた。具体的には11年12月まで続けた「L地画面での環境放射線情報」、アナウンサーによる連続企画「身近な放射線量を測る」などがあり、また視聴者から次々と寄せられた子どもたちの被ばくの不安についての文部科学省高官に対するスタジオ直撃インタビューなどがある。またドキュメント番組を制作し、福島の現状を内外に発信してきた。その一方、地元メディアとして当時、何ができ、何ができなかったかを検証する番組「原発水素爆発 わたしたちはどう伝えたのか」も放送した。

授賞理由

 大震災の翌日午後、福島第一原発第1号機の水素爆発の映像は衝撃的だった。この映像がなぜ収録できたのか、どのように放送されたのか、その意味を検証している。この添付資料によると、山中に監視カメラが設置されて残されたのは偶然であったが、レンズが、老朽化が進む第一原発に向けられていたのは技術者の判断だったという。また、この映像は海外のテレビやネットにも流れたが、架空の「爆発音」が加えられていた。安易な映像操作が可能となった時代における、あるべき情報発信とは何なのか、報道に携わる者に様々な課題を投げかける映像である。いずれにしろ、福島中央テレビの建屋爆発の撮影とその発信は地元テレビ局ならではのメディア発信となっており、またジャー ナリズム活動における放送映像という速報性に関して理想的活動を示したものと高く評価される。

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