第12回坂田記念ジャーナリズム賞(2004年)
(敬称略)
第1部門(スクープ・企画報道)
新聞の部
放送の部
【坂田記念ジャーナリズム賞(1件)】
第2部門(国際交流・国際貢献報道)
新聞の部
該当作なし
放送の部
該当作なし
海外研修補助
・朝日放送報道情報局記者・藤井容子
ドキュメンタリー・スペシャル「僕って?~教育の新たな課題、軽度発達障害~」
「軽度発達障害」。一見して分かりにくいこの障害は、社会から長く見過ごされ、周囲の知識のなさとそこからくる無理解が当人や教育現場に不幸な事態を招いてきた。2004年12月には、発達障害者支援法もできた。国が本腰を入れ始めた背景には、軽度発達障害と凶悪な少年事件との関係性を指摘する声があることだ。すべてのケースに共通するものではないが、1997年の神戸の少年A事件など世間を震撼させた事件の加害少年に、軽度発達障害が診断されているのも事実なのである。
こうした事情から、軽度発達障害児とそれを取り巻く環境へのカメラ取材は実は容易ではなかった。取材対象者とは何度も話し合い、「軽度発達障害への理解を深めたい」という共通の想いを胸に、1年半かけて番組が出来上がったのである。
軽度発達障害は、いじめ、不登校、学級崩壊、虐待といった大きな社会問題と密接に関わっている。こうした教育現場が抱えるさまざまな課題を解決するのに重要だとの認識からこのドキュメンタリーは成立している。
選考委員会では「新聞等の報道で軽度発達障害児が小中学校で増加しているという事実は知られていた。しかし実際にどれほど深刻なものかは、このドキュメンタリー映像でなければ伝えられない側面がある。取材者と取材対象者との信頼関係がなければ不可能な場面を記録したことは、この問題解決の重要なきっかけになるようにも思われる。この困難な取材を映像的に見せる工夫も含めて、取材者の報道活動は高く評価される」とされた。
・読売テレビ放送エグゼクティブ・プロデューサー・中川禎昭
「紅紅(ホンホン)13歳の旅立ち~中国・黄土高原に生きる~」
毎年春になると、西日本を中心に降り注ぐ黄砂。この黄砂の発生源は、荒涼とした大地が広がる中国内陸部の黄土高原。凍てつく大地の中、1人の少女が水桶を天秤棒で担ぎ、山道を登って行く。少女の名は玉少紅、愛称紅紅(ホンホン)。両親は都会に出稼ぎに行ったまま2年半も戻ってこない。残された病弱な祖父母の面倒は紅紅がみている。
夜明け前からの勉強を続け、中学入試を自信をもって終えるが、出稼ぎ先の両親から学費送金は無理との報せが届く。紅紅は自分の気持ちを伝えるため、生まれて初めて乗る長距離バスで両親の出稼ぎ先に向かう。担任の先生の尽力もあって、やっと進学が叶うことになる。
しかし紅紅の不安は尽きない。祖父母の健康状態、いつまで続くか予想のつかない学費。 それでも紅紅は熱い希望を胸に、寄宿生活に備えて布団を背負い1人村を後にするが……。
発展を続ける中国沿岸部の華やかな情報だけが伝えられる現在、中国のもう一つの側面を浮かび上がらせるとともに、われわれ日本人が経済的豊かさの中で見失いつつあるものを、きめ細かい映像で語りかけてくる。
選考委員会では「最近の中国の急速な発展、繁栄の陰にある中国内陸の実態を赤裸々に描写した作品」「この報道の秀逸なところは、運命の行く末が決して明るくはなさそうなのに、へこたれず到底負けそうにない少女の表情、何一 つ言わず、ただ孫を見守る祖父の表情である。表情がすべてを物語る。テレビの魂は表現である」と評価された。
海外研修の報告
・朝日新聞「ダスキン事件」取材班(代表=緒方謙・大阪本社地域報道部次長兼社会部次長)
北京散策
大阪本社社会部・西村磨
ベンツ、BMW、アウディ・・・・・。北京首都空港と北京市中心部を結ぶ高速道路[首都機場高速公路]を外国製高級車が時速120キロ以上の速度で走り抜けていく。一瞬、ドイツのアウトバーンを走っているかのように思えた。道路両端にはポプラが整然と植えられていたが、木々は排気ガスと砂ぼこりで雪をかぶったように真っ白になっていた。近代化の裏側で、環境対策が遅れている現状がかいま見えた。
北京に入った日の夕方、北京最大の繁華街・王府井を歩いた。通りには大型デパートが立ち並び、日本人と変わらない装いの若者があふれていた。北京市は4年後の北京五輪を控え、あちこちでデパートやオフィスビルの建設が進む。その建設予定地の多くが、胡同(フートン)と呼ばれるレンガ造りの住宅街を壊して造成されたものだった。
胡同は元王朝以降、内モンゴルの人々が建てた四合院造りの建物が連なる街並みだ。華やかなデパートの裏通りでは胡同の解体が進み、無数のレンガが積み上げられていた。ガイドによると、北京市は現在、市内25カ所の胡同を保存するよう義務づけているという。
当日は日曜日とあって、天安門広場、故宮博物院は観光客であふれていた。紫禁城とも呼ばれる故宮の敷地面積は約72万平方メートル。明王朝の永楽4年(1406年)から14年かけて造られた。清王朝最後の皇帝溥儀まで24人の皇帝がここに君臨し、中国を支配した。2体の獅子像に守られた故宮の太和門をくぐると、広大な広場と皇帝の戴冠式などの重要な儀式が行なわれたとされる太和殿が目に飛び込んできた。数え切れないほどの家来たちが広場で皇帝にひれ伏した様子が、数百年の時を越えて容易に想像できた。
近代化が進む北京では、年々貧富の格差が広がっているとされる。ガイドを務めてくれた御さんによると、北京の人々の年収は4万元ぐらい。1平方メー トル約1万元(約13万円)の高級マンションが次々と売れているという。一方で、環状と東西の2つある地下鉄では、体が不自由な男性が車内をはい回って乗客に金を求める姿をよく見かけた。北京市の玄関口北京駅は地方都市から出稼ぎに来たとみられる人々であふれていた。
天安門から西に約5キロの場所に中国革命軍事博物館がある。館内には数々の戦争で使われた武器や資料が数多く展示されていた。立ち寄ったつもりが、気が付くと2時間がたっていた。見学者の多くは中国人で、抗日戦争の歴史を示す展示品を食い入るように見つめていた。中でも南京大虐殺の写真や資料の前にはたくさんの人だかりができていた。
8月のサッカーアジアカップで中国人サポーターが反日的応援をしたことについて、東京都知事は「民度が低いからしょうがない」と切り捨てた。反日的応援が明らかに「民度」の問題ではないと感じた。(研修期間2004年8月21日~25日)
・NHKスペシャル「阪神を変えた男~監督・星野仙一~」取材班(代表・大宮龍市NHK大阪放送局報道部部長)
アテネ五輪現地派遣レポート
NHK報道局スポーツ報道センター 前大阪放送局ディレクター・加藤篤
ギリシャの太陽は、エーゲ海の反射も手伝って、街からすべての水分を蒸発させるらしい。 アクロポリスから見渡すアテネの街は石造りの建物と大気中に漂う埃で一層白々と見えた。 私は今回頂いた坂田賞海外研修のおかげで、アテネ五輪放送に携る機会を得た。目的はオリンピック開催直前の街の表情を中継で伝えるというものだ。当然「盛り上がっているアテネ」 を描写することが期待されている。その期待に応えられるだけの現実が、はたしてこの街に見つけられるのだろうか? 不安を抱えながら私は街を歩き、オリンピック前の空気を肌で感じてみることにした。
ふと、オリンピックのマグカップが目に入った。その土産物屋は店先にサッカー・ギリシャチームのTシャツを所狭しと並べてあった。EURO2000というヨーロッパチャンピオンを決める大会でギリシャが優勝、思いがけない快挙にアテネ中が大騒ぎとなったそうだ。 そのTシャツの片隅に、控えめにオリンピックの公式グッズが置かれていた。
店長に話を聞くと、オリンピックが近づけば、いつもはギリシャの民芸品を並べている1階フロアをすべてオリンピックグッズに置き換えるという。ギリ シャでは「その時」にならないと盛り上がらないのだということらしい。私は一安心して、どこにどんなグッズを置くのか、中継カメラの動線をイメージしながら店長と打ち合わせをすることができた。
こうして開幕前の中継は、当初の目的通り伝えることができた。開幕後の盛り上がりはすでにご存じの通りである。開幕前はオリンピックへの期待をチラとも見せていなかった街の表情が一転したのだ。ただでさえ狭いアテネの道路はギリシャ国旗を窓から振って走る車であふれ、カフェでは大画面テレビの競技中継に見入る人たちが夜遅くまでグラスを傾けていた。
今回感じたのは、当たり前のことではあるが、国民性の違いだった。乱暴な言い方かもしれないが、ギリシャの人々は「あらかじめ期待することが少ない」。いや「楽しいものはその余韻までじっくり味わおう」と言い換えたほうが正しいかもしれない。「自分の目で見て面白いものは面白い」と受け入れる気質が骨の髄までしみこんでいるように思えるのだ。 先のことに期待するのではなく、今あるものを大切にしようという気質というべきか。
たった数十日の滞在でギリシャの国民性まで論じるのは荒っぽいことではあるが、今回の経験は大いに考えさせられるものだった。これからもスポーツ競技だけでなく、そのバックボーンにスポットを当て、その国、人々の生き様まで想像できる知的好奇心を満たすことができるようなスポーツ報道に努めていきたいと思った。(この中継は2004年8月9日~13日「ニュース10」で放送された)
第12回坂田賞授賞理由
第1部門(スクープ・企画報道)
新聞の部
【坂田記念ジャーナリズム賞(3件)】
★産経新聞大阪本社社会部記者・皆川豪志
連載企画「大阪の時代一輝きはいつから失われたか」
推薦理由
大阪の「地盤沈下」が久しく叫ばれる中、なぜ、いつから大阪はだめになったのかを探るため5部にわたり1年間を通じて連載した。第1部では大阪が日本の中心ともいえるほど熱狂した大阪万博の時代を「万博―あのころ僕らの未来は明るかった」で取り上げ、第2部は低迷する大阪経済を「企業流出―社長はどちらにお住まいですか」として批判。第3部では大阪名物のお笑いすら東京標準になった現状を「お笑い―東京のテレビでたいねん」で浮き彫りにし、第4部「野球―校庭と球場は地続きだった」では昨年のプロ野球再編問題を大 阪の問題としてとらえた。さらに第5部「ジャーナリズムー大きい車どけてちょうだい」では大阪低迷の責任の一端を、新聞記者自身にかえりみた。
新聞記事の裏側にあるもの、大阪の記者が見つめ続けねばならないものを改めて浮き彫りにし、大阪ジャーナリズムの復権を訴えた。単独の連載としても読み応えのあるものになったが、通年企画にしたことで、大阪の経済や行政担当者に与えたインパクトは大きかった。また、大阪の地盤沈下を探ることで、地方全体が抱える問題を考えるうえでも普遍的な企画になった。
授賞理由
選考委員会では「皆川記者の文章は筆勢、文脈、生気に満ちて迫力がある。大阪の課題の選択と、その精査、文章に現われる情熱、憂慮が激しく読者に迫ってくる。近時、新聞記事が日本語としてややもすれば粗末な傾向にあるが、襟をただして読者をひきつける力があった」などと評価された。
★毎日新聞長期連載キャンペーン企画「あなたの愛の手を」取材班
代表=石川隆宣・大阪本社社会部記者
推薦理由
1964(昭和39)年5月5日「こどもの日」、「あなたの愛の手を」キャンペーンは始まった。毎日新聞大阪本社社会部が社団法人・家庭養護促進協会大阪事務所(大阪市天王寺区)と協力し、家庭に恵まれない子どもたちに里親を探すため、週1回朝刊大阪地域面などで子どもたちの紹介をスタートさせた。そして2004年、ついに40周年を迎え、夏には連載が2000回を数えた。
この節目に「こどもの日」を起点に異例のロングランキャンペーンを大々的に企画。同事務所の岩崎美枝子理事ら関係者から歴史に残るさまざまなエピソードを聞き出し、それを端緒に数十人におよぶ関連取材を重ね、通年企画「親子の絆(きずな)」シリーズ第3部に結実した。ほかに大阪地域面や特集面で記念紙面を展開、シンポジウムも開催した。
読者との双方向性が言われている現在、こうした温かい心でつながれた連載記事を途切れなく継続している。
授賞理由
選考委員会では「40年の重みを重視した。永年にわたる里親探しの社会福祉への貢献は見落とすことができない。その間里親制度の当面しているさまざまな困難な状況についても読者に分かりやすく語りかけ訴え続けてきた。児童虐待事件が表面化する中で、わが国の子どもをめぐる社会環境悪化への静かな警鐘となっている」などと評価された。
★朝日新聞野菜産地偽装事件をめぐる一連の報道
代表=山崎靖・大阪本社社会部遊軍長
推薦理由
大阪市の第三セクターがブロッコリーの産地偽装を下請け会社に指示していた疑惑を追い、「米国産ブロッコリー/中国産混入させ出荷」(7月23日朝刊)を特報した。報道をきっかけに大阪府警が不正競争防止法違反(虚偽表示)容疑で捜査に乗り出し、市OBの三セク社長が辞意を表明した。三セクという公的企業で、食に対する消費者の信頼を裏切る不正が組織的に繰り返されていた事実を地道な調査報道であぶり出した。
三セクは当初、偽装を否定したが、取材班が内部協力者らの証言をもとに具体的な手口を突き止めると認め、スクープをものにした。その後も「水増し疑い強まる」「別会社にも指示」で、偽装が計画的で長期にわたったことを報じ、「カボチャ『荷主の指示』」では、荷主の関与を決定的な文書で打ち出した。大阪府警による関係者逮捕の直後の企画「虚構のラベル」では、商品入れ替えが業界で広く慣習化している実情を浮き彫りにした。
また、近畿農政局が1年前に情報を得ながら放置したことなど、農水行政の怠慢ぶりも指摘。食の安全の実態と、三セク監視体制の機能不全ぶりを、証拠と証言で暴露するキャンペーンとなった。
授賞理由
選考委員会では「食の安全・安心の失墜が大問題になっていても、平気で偽装による利益をむさぼる人たちがいることに怒りをおぼえる。非常に複雑な業界の内部を読者にきり開いてみせた取材力を買う。それにしても食品流通業界のヤミは深い」と評価された。
放送の部
【坂田記念ジャーナリズム賞(1件)】
★関西テレビ放送ザ・ドキュメント「罪の意味~少年A仮退院と被害者家族の7年~」
代表=柴谷真理子・報道局記者
推薦理由
2004年12月「犯罪被害者基本法」が成立。本作は「神戸連続児童殺傷事件」被害者遺族の理解のもとに制作され、法成立の半年前に放送された。1 997年日本中を震撼させた「酒鬼薔薇」事件。逮捕された犯人は14歳の中学生だった。当時の少年法では犯行は刑事処分の対象ではなく、少年Aは非公開の審判を受け少年院送致。少年犯罪厳罰化論の一方で、彼の「更生」のための治療と教育が課題となる。
究極の不条理に、被害者土師淳君の遺族の苦悩は筆舌に尽くしがたい。少年 Aと同じ中学の下級生だった淳君の兄は、学校生活を続けることができなくなった。少年法は加害少年の「更生」をうたう。しかし被害者遺族の少年には支えらしい公的制度はないにひとしい。家族だけを支えにもがく日々。淳君を殺した少年の仮退院の時が迫る。
土師家の家族はメディアへの不信を超えて、初めてインタビューを応諾。「犯罪被害者基本法」成立でようやく緒についた被害者支援の社会化。究極の不条理を凝視する遺族の心情を誠実に受け止め、そして伝える。
授賞理由
選考委員会では「放送の報道活動として秀逸。この種のドキュメントの成否は、取材対象者といかに信頼関係を保ち、本音を映像化できるかにかかっている。その点この番組は取材者と被害者遺族の関係が自然な形で築かれていると 感じられ、その報道活動を持続する苦労がドキュメンタリーとしての迫真性を表現していた」と評価された。